大坂峠〜須花城跡・城之山〜小野久保山〜浅利山

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メンバー:T
ルート地図 GPSのログ(赤:往路、青:復路)を地理院地図に重ねて表示します。

Y.T氏が作成した「足利百名山位置図」には「大坂山」という山名が記載されているが、実際はどこの山か、定かでない。そこで、先月、この大坂山を実地に探しに出かけたところ、名草下町の大坂地区の奥で、廃神社のある岩峰に偶然辿り着いた(山行記録)。多分、この岩峰が大坂山ではなかろうか。

後日、大坂山を文献からも調べる必要があると考えて、国立国会図書館デジタルコレクション(NDL)で検索し、『栃木県市町村誌』に下記の記述を見つけた。なお、📚が付いたリンクは、リンク先がNDLのデジタル化資料であることを表し、閲覧にはNDLへの利用者登録(本登録)が必要である。登録すると、数百万点もの書籍(主に古書)が全文オンラインかつ無料で閲覧でき、全文検索も可能。NDL、素晴らし過ぎる👍

須花坂—名草と安蘇郡新合村須花を結ぶ街道上にあり、天正十一年に足利城主長尾但馬守顕長の臣、小曾根筑前が佐野唐沢の城主佐野宗綱と戦った古戦場である。初め小曾根筑前が、佐野宗綱の臣で彦間を守っていた小野兵部兄弟を討って彦間を奪ったため、宗綱は大いに怒り、老臣の諫めを容れず、数百の兵を動かして彦間を奪回し、進んで須花の砦を囲んだが、天正十一年一月元日、長尾顕長の臣、豊島七左衛門に大坂山から狙撃されて戦死した。須花の砦は飛駒村にある砦らしい。
右近坂—須花坂と大阪山の間にある小さな坂路をいう。岩下右近太夫がいたところからこの名称が出た。岩下家の祖先は筑前の人、子孫は鎌倉で五郎正宗の門に入り、金剛兵衛盛高と言った。足利氏の刀鍛冶となり、その名刀は、ばん阿寺の宝物となっている。
根本山神社—大阪。祭主、大山祇命を祭る。

ついでに判ったことだが、岩峰上の廃神社は根本山神社らしい。また、右近坂については、全国Q地図で調べると右近坂橋があり、この付近を指すと思われる。

この記述によると、佐野宗綱は大坂山のすぐ近くで戦死したことになっている。しかし、これは、以下に説明する通説による戦没地と表記が異なっている。

宗綱討死の顛末は、江戸時代に書かれた軍記物で盛んに取り上げられ、槙島昭武著『関八州古戦録』や塙保己一編『続群書類従』に収録された「新田老談記」「唐沢城老談記」が代表的なものらしい。これらの原本は読み難いが、現代訳が霜川遠志訳『原本現代訳 関八州古戦録』や周東隆一著『歴史探訪桐生とその周縁』で読める。また、ネット情報では「余湖くんのホームページ」の「須花城」の記事が簡潔に纏まっていて分かり易い。

これらの文献では、宗綱は「須花坂」(唐沢城老談記)あるいは「藤坂山の北」(新田老談記、関八州古戦録)で鉄砲玉に当たって落馬し、豊島七右衛門に首を打ち取られた、とされている。ここに現れた「藤坂山」という山は、もちろん、藤坂峠の近くにある足利百名山№15の藤坂山とは全く別の山である(須花から足百№15藤坂山は遠過ぎる)。

なお、宗綱を討ち取った武士の名は、『田沼町史』の「長尾顕長の感状」によると、豊島彦七郎(忠治)が正しいようである。

また、田代善吉著『栃木県史』に「須花古戦場」について下記の記述があり、宗綱が亡くなった場所について、より具体的に推測している(適宜、現代仮名遣いに改編)。

新合村大字下彦間の西方にある、いまは田畑となっている、小字日向と称する付近一体の地である、天正十一年正月元日、佐野宗綱と長尾顕長と合戦せし地にて、佐野宗綱戦死した、其戦死せし場所は不明であるが、昭和十一年八月調べにてハンノキのあるあたりではあるまいかと想像さる、里民宗綱の冥福を祈らんとて、二つの塚を築く、周囲十八間、高さ一丈余、其塚上に榧を植えたりと伝う、正光寺の側にして榧の木何れも周囲約一丈五尺見事に成育している(後略)

日向は正光寺(しょうこうじ)がある辺りの集落名である。須花と聞くと須花トンネルや、蕎麦を食べに行ったことがある須花坂公園が想起されて、その辺りが合戦場かと思っていたが、それよりずっと東の平地である。当時、須花城は長尾方の手に落ちていて、それを奪還しようとして戦を起こしたそうなので、そう知れば、合戦の場所も納得できる。

そして、宗綱はさらに大坂峠を越えて足利に攻め込もうとし、単騎突出して山裾辺りで伏兵に遭って銃撃されたのではないか。そうすると「藤坂山の北」の藤坂山は、大坂峠周辺の山を指していることになる。

しかしながら、柳田貞夫著『松田城と松田 : 足利地方の戦国時代』によると、藤坂は長尾氏が拠点を置いた松田町湯ノ沢の一帯を指すから、大坂峠周辺の山を藤坂山と呼ぶのは誤解と混乱の元で、適切ではない。『栃木県市町村誌』の著者も(刊行はこちらが先だが)藤坂山がおかしいと感じて、新たに大坂山と呼び替えた可能性があると思う。

だとすれば、大坂山の場所を考える上で、件の記述はノーカンにして良いんじゃないかな。今のところ、大坂山についての文献は他にないし、地元で大坂山と呼ばれている山があるとの情報もないので、廃神社のある岩峰を大坂山と呼んで差し支えないだろう……

……というのが、長々と愚考を重ねた結論となる。あーだこーだと調べているうちに興味が湧いてきて、実際に須花古戦場の風景を見たくなった。また、文献調査の副産物として、周辺の無名峰に実は山名があることが新たに判明したので、合わせて歩いてきました。

大坂峠〜須花城跡

行程:正光寺 9:30 …大坂峠 10:00 …須花山(264m) 10:20 …須花城跡 10:40 …須花 11:00 …宇都宮神社 11:15

桐生を車で出発。猪子峠、藤坂峠、須花峠を経由して佐野市下彦間町に入り、正光寺の駐車場に車を置かせて貰う。まず、空身でデジカメ(RICOH GR Ⅲ)だけ持って、寺の境内を見学させて頂く。寺内には誰もいない。一段上がったところに小振りな本堂が建つ。左手に庫裏があるが、こちらも静か。庫裏の前には「石造層塔光明真言供養塔」なる端正な三重の石塔が建つ。元禄七(1694)年に建てられたものとのこと。


正光寺本堂と宝篋印塔


石造層塔光明真言供養塔

本堂の右手には一見、神社のような建物がある。これは佐野坂東三十三箇所観音霊場第24番札所の観音堂だそうだ。堂前の老桜が満開で、はらはらと花びらが舞い落ちている。

「佐野宗綱公並びに将士の墓」の案内標識に導かれて、さらに左奥に進むと、墓地の一隅に最近見慣れた形の苔むした墓塔群と、一基の新しく高い墓塔が建つ。


観音堂(佐野坂東二十四番札所)


佐野宗綱公並びに将士の墓

宗綱公の墓所から、ふかふかと柔らかい土を踏んで奥の山林に入ったところが正光寺城跡で、空堀に囲まれた曲輪がある。城と言っても小規模なものだ。しかし、城跡巡りの趣味はない素人の目にもはっきりとわかる遺構で、ちょっと面白みを感じる。


正光寺城跡の曲輪


正光寺城跡の空堀

墓参りと城跡見学を終えて駐車場に戻り、ザックを担いで大坂峠に向かって出発する。早速、風景の写真を撮ろうとしたら電池切れ。予備の電池に交換したが、これも充電し忘れていて空っ穴。抜かった。以降の写真はスマホ(AQUOS sense7)で撮影したものです。

改めて寺の前から、南に広がる畑地と佐野・足利市境の低い稜線を見渡す。4月に入ったばかりだが、周囲の山々は早くも新緑に覆われている。今日は快晴で、暑いくらいの陽気だ。正面の山並みの一番低いあたりが大坂峠だろう。谷戸の奥のちょこんとした濃い緑のピークは264m標高点峰、その右隣のなだらかな黄緑色の頂は名草山だ。

畑地を横切って大坂峠に向かう。北西にのっそりした山容の彦間浅間山を望み、その手前に(稜線が背景に溶け込んで分かり難いが)須花城跡の小さな頂を見出す。彦間浅間山の右奥に遠望されるギザギザの山並みは、市境稜線の彦間山(419m標高点峰)〜下彦間山(449m標高点峰)のようだ。


正光寺前から大坂峠方面の眺め


須花城跡と彦間浅間山を望む
遠くに彦間山〜下彦間山の稜線

舗装された農道から直進して未舗装道に入る。振り返ると桜の花に囲まれた正光寺の向こうに、彦間川東岸の低いながらもツンツンした4つのピークが連なる。これらのピークは、左から小野久保山(490m)、オベラ山(441m)、大光寺山(350m)、307m三角点峰である。オベラ山と大光寺山の山名は『田沼町史』第3巻のp.102p.115の記述から判明した。


大坂峠道の入り口


彦間川東岸の山並みを望む

畑地から山林に入り、笹藪の切り開きを進む。十字路を直進するとあまり踏まれていない道となるが、道型ははっきりしているし、道端に首のない地蔵尊があって、古の峠道であることが確認できる。


大坂峠へは直進


首のない地蔵尊

厚く積もった落ち葉を踏んで、ごく緩い坂道を登る。深く窪んだ道型が、かつて往来繁かったことを窺わせる。右脇の高みに石祠と石仏、石仏の台座がある。台座には「馬頭観音 寛保二壬戌歳四月吉日」の銘があり、江戸時代にこの道が利用されていたことがわかる。石仏は三面八臂で、キリッと彫りの深い顔立ちの馬頭観音だ(参考:『田沼町史』第2巻p.53)。


深く窪んだ道型が残る


馬頭観音
寛保二壬戌(1742)歳四月吉日

さらに進むと右手に石祠がある。塔身の左右の側面に分けて三猿を浮き彫りにしており、珍しい。このすぐ先が深い切り通しとなった大坂峠だ。前回は名草側からこの峠に登っており、これで峠道の軌跡が繋がった。この峠道は、現在は歩かれている様子がほとんどないが、道型は明確に残り、途中には石造物がいくつもあって、歴史を感じる道であった。


側面に三猿のある石祠


大坂峠

前回も見た大坂峠の石仏にお参りしたのち、市境稜線を前回と反対側の須花峠へ辿る。すぐ先にも浅い切り通しが二箇所ある。これは峠道を切り直したものか、あるいは、かつて峠を守る砦があって、その堀切かも。


大坂峠の石仏


市境稜線を須花峠側へ辿る

檜や雑木に覆われた稜線を辿る。笹藪がポサポサあるが、踏み跡ははっきりしている。ただし、もう暖かくなって、蜘蛛が巣が張り始めている。低山歩きの季節も終盤だなあ。

程なく264m標高点に着くと、1月に本覚山〜名草山を歩いてここを通過したときにはなかった、真新しい「須花山 264M」の山名標識が設置されている。「田ノ沢山」や「大辻山」に設置されたものと同じ型の大変丁寧な手作りの標識だ。


須花山(264m標高点峰)


須花城跡への分岐

頂上から須花峠方面に僅かに進み、「←須花城跡」にしたがって右(北)に分岐する枝尾根に入る。最初は急な坂道を下るが、すぐになだらかで歩き易い尾根道となる。T字の尾根の分岐となり、両方とも道が通じている。ここは左へ。すぐ左下の谷を通る県道飛駒足利線から、車両の走行音が微かに聞こえてくる。


尾根上の山道を辿る


山腹を左に巻き始める

山腹を左に巻き始めたところで右に分かれる道を登ると、明治年代の比較的新しい石祠がある。さらに笹藪の切り開き道を進むと小平地に出て、覆屋の中にこれも新し目の石祠が祀られている。覆屋の柱に「須花城跡」と記された小さなプレートがある。樹林に囲まれて、展望はない。さらに東へ下る良い山道があるが、そちらには行かず、巻道に戻る。


頂に上がったところの石祠
願主藤倉孫左衛門
明治二己巳(1869)年十一月吉日再建


須花城跡

巻道を進んで小鞍部に下ると、左右に道型が分かれる。この道は戦前までの古い地形図には軽車道として記載されており、須花峠への近道として使われたのではないかと思う。右の道型を辿って山腹をトラバースし、低い電柵を跨ぎ越して山麓の集落と畑地に下り着く。あちこちに花が咲いて、春爛漫の農村風景が広がる。実に長閑だなあ。


北西へ下って右山腹を巻く


山麓の畑地に下り着く

振り返ると谷戸の奥に須花城跡を仰ぎ見る。ここの集落は小坂といい、須花城にも小坂城の別名がある。藤坂、大坂など、〜坂という地名は峠道を表していることが多い。板塀に囲まれた立派な民家の脇を通って十字路に出る。ここまでで今日の行程の前半は終了。右折すると正光寺に戻れるが、左折して、後半の山歩きの登り口の宇都宮神社に向かう。


須花城跡を振り返る


小坂集落の十字路に出る

左の道を進むと県道飛駒足利線に出る。この地点に須花バス停があり、すぐ左に須花坂公園の入口と彦間浅間山の登り口が見えている。

後日調べると、須花バス停を通る「さーのって号」は、大部分の路線がデマンド交通になっていて、乗車には事前の登録と予約が必要。

県道を歩き、宝来橋で彦間川を渡る。橋から見下ろす川には、伏流になっているのか、水が全くない。県道桐生田沼線に合流し、飛駒方面に向かう。左手には市境稜線の彦間山〜下彦間山を望む。右端に見える下彦間山東峰はツンと尖っていて、目を引く。


県道桐生田沼線から彦間山〜下彦間山を望む


県道から城之山(中央)を望む

右手にはこれから登る城之山(じょうのやま)が左に長く稜線を延ばす。この山名は『田沼町史』の「城之山城」の記事で見つけた。城跡巡りの趣味はないが、〜山の山頂にある、と書かれていれば、興味を惹かれる。しかも、山麓から眺めるとなかなか立派な山容。これはますますやる気が湧いてきた😀。後半の山歩きは、城之山を経て小野久保山に登ったのち、オベラ山、大光寺山、307m三角点峰の山稜を縦走する計画である。

城之山〜小野久保山〜浅利山

行程:宇都宮神社 11:45 …城之山(400m) 12:25 …小野久保山(490m) 12:50 …オベラ山(441m) 13:35 …浅利山(331m) 14:10〜14:25 …大光寺山(350m) 14:40 …307m三角点峰 15:05〜15:15 …正光寺 16:15

宇都宮神社に到着して参拝。チョロチョロと流れ出る手水を見て、プラティパスを持って来るのを忘れたことに気が付く。あちゃー。今日の昼食は、久し振りにコンロでお湯を沸かして食べようと思ったのだが。止むを得ず、ここでカップヌードルカレーを作って食べ、十分に水を飲んでおく。あとは缶ビールしか水気がないが、ま、なんとかなるだろう。


宇都宮神社の鳥居
背景は城之山


宇都宮神社

神社の右手から裏山を登り始める。下生えのない杉林で、藪はなくて歩き易いが、かなりの急斜面だ。途中で左上の尾根に逃げるが、尾根上も急登が続く。


神社裏手の急斜面を登る


303m標高点

303m標高点のピークに登り着いて、ようやく一息。ここからは小さな上下を交えて、ほぼ一直線上の尾根上の登りが続く。この陽気で雑木林が一斉に芽吹き始め、新緑が綺麗だ。途中で鹿の群れに遭遇。左右の斜面へ分かれて、各々5、6頭の鹿が白い尻を見せながら、逃げ下って行く。


尾根を一直線状に登る


新緑を透かして飛駒方面を望む

岩が露出した切岸が現れると、その上が城之山頂上だ。頂上は狭い平坦地で、植林に覆われて眺めは全くなく、地味な頂である。頂上の回りを半周して切岸があり、一見、廃作業道があるのかと思うが、両端でプッツリ終わっているところが異なる。


城之山頂上直下の切岸


城之山頂上

頂上から北へ尾根を辿ると、少し下ってゆるゆると登る。途中、数本の堀切を渡る。杉植林に覆われた広くなだらかな尾根を登ると、主稜線に合流する。この先の行程は、2016年12月に千躰庚申山〜石尊山〜大久保山の山行で逆順に歩いているが、大体、地味な山稜であまり印象に残っていない。まず、北の小野久保山を往復して来よう。


頂上北の堀切


広くなだらかな尾根を登る


主稜線に合流して北上


細尾根の区間を通過

引き続き広くなだらかな尾根をゆるゆると登る。途中、細尾根の区間があり、東側は閑馬川に向かって急斜面で落ちている。再び、植林に覆われた広い尾根となり、程なく南北に長く平坦で三角点標石(点名:小野久保)のある小野久保山頂上に着く。前回は山名標識の類は全く見なかったが、今回は少し先に「小野久保山 490.5」の標識が設置されているのを見つける。


三角点標石のある小野久保山頂上


少し先に「小野久保山」の山名標識

腰を下ろして、レトルトパウチの鯖味噌煮を肴に缶ビールを飲む。一休みした後、往路を城之山への分岐まで戻り、そこから主稜線をさらに南東へ辿る。植林帯から新緑の雑木林に出たところで、主稜線は右折。木立を透かして、オベラ山のピークが薄らと見える。


主稜線を戻って南東へ


オベラ山へザレた稜線を登る

小さく上下しながら緩く下り、オベラ山へ向かってザレた稜線を登り返す。ここでは、終盤に近いが結構多くのアカヤシオを見る。小さな岩場の登りもあり、なかなか楽しい。


終盤のアカヤシオ


岩場に咲くアカヤシオ


山並みを背景にアカヤシオ


稜線上にもアカヤシオ

登り着いたオベラ山の頂上はなだらかで小広く、まだ新緑の雑木林に覆われて明るい雰囲気。少し先に閑馬側を向いて2基の石祠が祀られている。


オベラ山頂上


頂上南東の石祠
昭和八年十月再建 坂和氏子中

主稜線をさらに辿る。新緑の雑木林に覆われ、明るくて気分良い尾根歩きが続く。だらだらと下ったのち、366m標高点峰へ短いが急な坂を登る。


新緑を透かして366m標高点峰を望む


366m標高点峰への登り

366m標高点峰の頂上の直前で左(東)に派生する枝尾根に入り、浅利山(あざりやま)を往復する。前回は浅利山の存在を知らなくて、素通りしていた。最初は急坂の下りだ。帰りの登りがきつそうで、思いやられる。


枝尾根に入って浅利山に向かい


浅利山へザレ尾根を登る

ザレた尾根を登り返すと2基の石仏のある浅利山西峰に着く。ここの石仏は、閑馬川を囲む山々を背景にして建ち、像容、ロケーションとも素晴らしく、来た甲斐があった。一つは智拳印を結んだ大日如来像だが、もう一方は女神像のようで不明。すぐ隣が浅利山頂上で削平されている。ここに浅利山城の主郭があったそうである。


浅利山西峰からオベラ山を望む


浅利山西峰の石祠


浅利山頂上


366m標高点峰に戻って大光寺山に向かう

366m標高点峰に戻り、主稜線を南下して大光寺山に向かう。この山名は東麓の大光寺に由来する。頂上には東向きに2基の石祠が祀られ、台座に「馬場 城戸 講中」の銘がある。


閑馬側左岸の山並みを望む


大光寺山頂上の石祠
文化元甲子(1804年)四月吉日

大光寺山から短いが急な坂を下る。307m三角点峰へは緩いがだらだらと長い登りとなる。三角点標石(点名:下彦間)のある山頂は南北に細長い。R.K氏の標高プレートは健在。


大光寺山から急坂を下る


新緑の稜線を登り返す


307m三角点峰頂上


R.K氏の標高標識

ブロックチョコを齧って休憩したのち、下山にかかる。稜線を南下すると、大岩の上に「根本山神」の銘のある石祠が祀られている。文化十三丙子(1816)三月吉日の銘があり、なかなか古いものだ。


根本山神の石祠


幅広い斜面を急降下

稜線はここから拡散して、幅広い斜面の急降下となり、進路を定め難い。しかも、GPSの電池が切れたので交換したら、衛星は捕捉できているのに、現在位置の表示が数km離れた地点にすっ飛ぶ(ルート地図ではこの間の軌跡は手書きで補間)。濃い笹藪を突っ切って、なんとか主稜線に復帰。切り開きやテープが現れ、藪漕ぎを免れてホッとする。


低木帯の切り開きを下る


ピンクテープもちらほら

217m標高点の付近から、またポソポソと笹藪が現れるが、稜線伝いに下ると明瞭な山道に合流する。あとはこの山道を下ると、尾根末端で右に切り返して山麓に降り立った。この地点には何の目印もないので、逆コースの登り口とした場合は分かり難いかも。


笹藪っぽい稜線を辿る


明瞭な山道に合流


山道を辿ってここに下り着く


正光寺の駐車場に帰着

あとは県道に出て、約15分の車道歩きで車を置いた正光寺に戻る。小野久保山〜307m三角点峰を歩いたのは2回目だが、浅利山にも立ち寄れたし、アカヤシオや新緑が綺麗で楽しめた。また、低山にしては、城之山の登りや主稜線のアップダウンなど、歩き応えもあって、今回はとても印象に残る山歩きとなった。

桐生へは往路を戻る。名草川沿いの県道を走っていたら、路側を歩いているハイカーさんがいらして、なんと、ハイトスさんご夫婦であった。駐車地点の名草上町自治会館まで同乗頂く。BBSで、次は彦間山〜名草山に出かけられるとは伺っていたが、まさかこんな所でお会いできるとは奇遇であった。ハイトスさんのこの日の山行記録はこちら

参考URL:ヤマレコyoshifrom2017氏「栃木の峠:大坂峠と須花峠