大坂峠〜山王山〜大坂山
今週末は野暮用があり、日曜日の午後になってようやく暇ができた。せっかくの休みだし、半日でこなせる近場の軽い山歩きに出かけよう。
ということで、Y.T氏作成の「足利百名山位置図」に山名が記載されているが、ネットで山名を検索してもほとんど情報がなくて、どこにあるのか判明していない「大坂山」を実地で探しに行くことにする。
位置図によると、大坂山は須花峠〜山王山の間の足利・佐野市境稜線から足利側に少し入った地点にある。山名からして、名草下町の大坂地区を囲む山々のどこかにあるのは間違いないだろう。
市境稜線上の264m標高点峰が大坂山との情報もある。しかし、本覚山〜名草山を歩いた際に登頂したところ、何の変哲もないピークだったので、特に取り上げて位置図に記載するような山ではないように思う。市境稜線上のピークであることも、大坂山ではないと思う理由の一つ。もっとも、位置図が示す位置はかなりアバウトなので😅、この理由はあまり根拠にならない。
地形図を見ると、大坂地区の北にある232m標高点が、集落から見たときに目立つ位置にあるので、大坂山ではないかという気がする。232m標高点に登ってみようかな。また、大坂地区には「名草大坂の庚申塔」があり、珍しいタイプの青面金剛像が祀られているとのこと。これは是非、見ておかねば。
という訳で、取り敢えず、青面金剛像を見て、232m標高点に登るということだけを決めて、昼食後に桐生を車で出発。県道名草小俣線を走り、猪子峠、藤坂峠を経由して、大坂地区内の路側の広い所に車を置く。このすぐ先に「名草大坂の庚申塔→」の道標がある。
道標の横には「足性神」と刻まれた石碑がある。これは初めて見る種類の石碑だが、如何なる神か。後日調べてみると、足百№59浅間山の登山口の富士仙元宮にも同種の石碑があるらしい。浅間山に行く際は要チェックだ。
入口から未舗装道に少し入ったところにも、2台分の駐車スペースがある。名草大坂の庚申塔は、さらに山裾の森林に入ったすぐの場所にあり、石灯籠と屋根が架けられた青面金剛像が建つ。
この青面金剛像について、説明板に詳しく書いてあるので、テキストに起こしておく。
高さ142cm、享保九(1724)年造立。
本塔は、台石の上の光背型の塔に青面金剛像を中心に上部に飛雲を配した日、月、下部に雌雄の鶏、三猿が彫られている。青面金剛像は頭に蛇を巻き、目に三眼、左三臂には上部に宝輪、中央に女子、下方に弓、右三臂には上・中に剣、下方に弓を持ち、両脚を邪鬼を踏まえている。特に三個の髑髏を配した特異な形態を持っている。(後略)
彫りが深く、立体的で写実的な像だ。ショケラ(女子)が褌を履いていることまでわかる。これまでに見た青面金剛像の中でもトップレベルで珍しく、また見事なものだ。
青面金剛像を見学したのち、大坂地区の奥に向かう。行く手には232m標高点が鈍角三角形の山容をこんもりと盛り上げている。頂上付近は疎な雑木林に覆われ、ザレた斜面が見えている。頂上には何かありそうな予感。左手には乗馬クラブがあり、奥の小屋には馬がいる。背景の山は足百№50の本覚山だ。
232m標高点の手前で、左に分岐する谷に入り、未舗装林道を辿る。232m標高点の斜面に取り付けそうな場所を探して歩くが、笹藪が酷くて、踏み込む気がしない。「土石流危険渓流 利根川水系 北大坂沢」の看板を過ぎ、最奥の畑地の脇を通って薄暗い杉林に入ると、右に荒れた作業道が分岐する。この辺から取り付いてみよう。
廃作業道に入って、シダと杉に覆われた谷間を登る。水流はない。段々傾斜が増して登り難くなったので、右の斜面に逃げて尾根の上に出る。尾根上は疎な雑木林で、けもの道が縦横に通じ、それなりに急だが、谷間よりはずっと歩き易い。
程なく、冬枯れの雑木林に覆われて明るい雰囲気の小ピークに登り着く。振り返ると、南麓の大坂地区が眺められる。驚いたことに赤と黄テープのマーキングがあり、こんなところまで歩かれているんだなあ、と感心する。
小ピークからヒサカキの緑が混じる雑木林の尾根を登る。赤テープもずっと続いている。やがて232m標高点の頂上に登り着く。雑木林に囲まれて、展望は木の間越しに山王山が眺められる程度だが、小広く明るい平地のある頂で、居心地は良い。しかし、赤テープ以外は何にもなし。何かあるという予感が外れてガッカリする。ここは大坂山ではなさそうだ。
さて、この後はどうしようか。青面金剛像を見て、232m標高点に登るということだけを決めて出掛けて来たので、この後はノープランだし、下調べもほとんどしていない。時刻はまだ14時なので、帰るには早い。本覚山〜名草山の山行で辿った尾根まで歩いてみよう。
232m標高点の西の尾根を緩く下る。雑木林の尾根で藪はなく、赤テープが続く。樹林に覆われ、広く平坦なピークで本覚山からの尾根と合流する。「大坂地区ホタルの里」と手書きされた小さな案内プレートがあり、ここまでの赤テープは232m標高点を経て、名草源氏ホタルの里へのコースを案内するものだったらしい。少し先には「山神社」と刻まれた、前回の山行でも見た覚えのある石祠がある。
尾根を北へ辿る。緩くアップダウンすると、東西の斜面に道型の痕跡が残る峠に着く。このまま尾根を北に辿っても以前の山行をなぞるだけで面白くないから、峠道を右(東)に下ってみよう。すぐに緩く浅い窪の下りとなり、作業道が現れる。右から降りて来た作業道を合わせると、放擲された畑地が広がる谷戸(がいと)に出る。
すぐ先の谷戸の二股辺りが「名草源氏ホタルの里」で、ホタルの幼虫と幼虫の餌となるカワニナを養殖する水路がある。その先の三差路を南下すれば駐車地に戻るが、まだ時間はある。右の谷沿いの車道を上ってみよう。
蛍遊窯(けいゆうがま)という窯元の前を通るとY字分岐があり、左の道は民家で行き止まりのようだ。分岐には馬頭観音の石碑があり、写真を撮っていると、民家の方から若い男性が通りかかる。挨拶して、大坂山について尋ねてみる。聞いたことはないそうだが、この道は須花トンネルができる前は、下彦間に通ずるメインルートだった、と大変興味深い話を伺う。
右の道を上ると、程なく舗装が尽きて左に道が分かれ、分岐点に石積みの上に屋根が架けられた石像、石碑がある。石像は青面金剛像で、名草大坂のものに比べると素朴なものだ。石碑は十九夜塔で、側面の銘によると江戸時代後期に造立されたもののようだ。
この石像・石碑は、先程話を伺った旧道の重要な分岐点に建てられたものだろう、と考えて左の道に入る。この時点では、旧道が越える峠の名前は知らずに進んでいる。それが「大坂峠」であるとは、後日調べて知った。
同じ日にヤマレコのyoshifrom2017氏がこの峠道を歩いておられる(栃木の峠:大坂峠と須花峠)。それによると、私はうっかり見落としたが、石積みの大石に「左さかミち 右やまみち」と刻まれているそうである。私が撮った写真でも確認できた。また、2017年の記事なので読んでいたのを忘れていたが、たそがれさんも大坂峠を歩いておられる。
左の道を進むと谷筋に入り、程なくY字の分岐となる。ここは山勘で左へ。谷が狭くなり、道型は薄く怪しくなって、倒木が道を塞ぐ。右へ切り返して斜面のトラバースになると、荒れているがはっきり窪んだ道型が続く。
一箇所、道が崩壊しているが、通過は無問題。やがて、市境稜線上の深い切り通しに到着する。この深さは、明らかにここがかつての主要道であったことを示している。ちょっと感動。切り通しの底には土砂と落ち葉が厚く堆積し、往来が途絶えて久しいことを示す。
これだけ立派な古の峠ならば、何かありそう。切り通しの右手(東側)に上がると小平地があり、傾き始めた陽に照らされて大小2体の石仏が建つ。いやー、これは素晴らしいな。
大きい方は地蔵菩薩像で、台座には「ह 寒念佛供養」の左右に「天下泰平 国土安全」と刻まれている(後日調べで、“ह”は地蔵菩薩の種字)。小さい方は馬頭観音像で、「施主 藤倉八右衛門 稲垣三…」の銘がある。
さて、この後はどうしようか(今日2回目)。この峠を訪れて、今日の成果としては満足したし、既に時刻は15時を回っているので、峠道を引き返しても良い。しかし、ここは足利・佐野市境稜線の未踏区間なので、せっかく来たついでに山王山まで未踏区間を歩いておきたい気もする。地形図を見ると、山王山から大網林道に下れば、大坂峠入口まで谷沿いの破線路がある。あまりのんびりとは歩けないが、日没には十分に間に合うだろう。
という訳で、市境稜線の縦走を始めて、山王山に向かう。稜線はぽさぽさと笹藪があり、一部の区間では身の丈より高いが、道型は明瞭で藪漕ぎはない。
なだらかなピークを越えると、斜め右前に木立を透かして山王山のずんぐりと高いピークが見えてくる。石祠を過ぎ、一段登ると258m標高点。あまりピークらしくなく、檜の木の根元に「258m」と書いた古い木の標識が落ちていて、標高点と分かる。
薄く笹藪に覆われたなだらかな稜線をゆるゆると登る。振り返ると、木の間越しに飛駒盆地を遠望する。標高が低いこの辺りの市境稜線は、藪が酷そうと思って、これまで訪問に二の足を踏んできたが、そこまでの笹藪ではなく、なかなか雰囲気の良い稜線だ。しかし、山王山まではまだ距離がある。時間がちょっと心配になって来た。
やがてザレた細尾根となり、露岩も現れる。山王山への最後の登りに取り付き、急斜面を一気に登って、なだらかで広い頂上の一角に着く。ここには、木の幹に文字が掠れた「山王山」の山名標識が架かる。振り返って、歩いて来た市境稜線を俯瞰し、飛駒盆地を遠望する。なかなか良い縦走路であった。少し先の檜林の中に石祠と「足利百名山 第12座 山王山」の山名標識がある。
山王山は2回目の登頂。前回は大網林道から登った。時刻は16時10分前。日はだいぶ長くなっているが、既に傾きかけている。日の入りは17時半位だから、あまり時間の余裕はない。頂上には長居せずに大網林道へ、植林の急斜面をジグザグに下る。
林道に下り着き、カーブから下山ルートの谷間を見おろす。不法投棄のゴミが酷い。破線路らしき道型はなく、かなりの急斜面だ。下に沢床が見えているので、あそこまで強引に下れば、あとはなんとかなりそうだが、破線路を辿る気は失せた。地形図を確認すると、左岸の枝尾根が等高線の間隔が空いていて、比較的安全に下れそうだ。こっちへ行こう。
大網林道のカーブから南西に派生する尾根に入る。この尾根は樺崎八幡山〜奥山〜寺山の山行で、逆順に歩いている。今回は最初の小ピークで右折して、狙った枝尾根に入る。
この枝尾根は傾斜は緩く、冬枯れの雑木林に覆われて藪はない。ザレた坂には踏み跡もある。予想通り快適に下れる尾根だ。すぐに檜に包まれた小ピークへの登り返しとなり、巨石が積み重なった岩峰が現れる。左から巻いていくと、おおっ、神社らしき建物を発見!
神社の前面に出て、岩峰の上の社を見上げる。柱はまだ立っているが、屋根や壁は破れ放題の廃神社だ。社の下には水盤が残っている。社の中も覗いてみたが、空っぽで神社の名前や祭神が判りそうな手掛かりはない。
社の背後の岩峰の天辺には石祠があり、紙垂の付いた注連縄が張られている。石祠の塔身には「下村五谷戸講中 文化十二(1815)三月吉日」「願主 大坂谷」の銘があり、神社、石祠が山麓の大坂地区を向いていることから、大坂の住人に古くから信仰されていたことがわかる。ということで、「足利百名山位置図」に記載の「大坂山」はまず間違いなくここのことだろう。そして、位置図が示す大坂山の位置は、やはりアバウトであった😅
後日、この神社についてネットで調べ直すと、山とんぼさんの「山王山」と「山王山(大山祇神社尾根)」の記事に、この廃神社を訪問したことが大変詳しく書かれていた。それによると、この神社は大山祇神社だそうである。記事には“大坂山”とは書かれていないから、どおりで検索にはヒットしなかった訳である。
神社の正面から支尾根を下る道型があり、これが参道だろう。古いマーキングも残っている。ザレた支尾根を下ると、やがて杉植林に覆われた緩い谷間に下り着く。杉林を抜けると大駐車場に出る。まるでスキー場の駐車場のようなでかさで、こりゃなんじゃと思ったら、ホタルの里の第3駐車場であった。ホタルが飛ぶ時期の人出の多さが窺われる(名草ホタルまつりは毎年6/10〜30)。なお、周辺には参道入口を示す目印は全く見当たらない。
川沿いの車道に出たところで散歩中のお爺さんに出会って、神社について話を伺う。神社名は山の神と呼んでおられた。昔は祭りで博打が開帳されて賑わったが、参拝者の高齢化により麓の神社に移り、その後、公民館で行われるようになった、とのことであった。現在はどうなのかは、聞き漏らした。
あとは車道を歩いて駐車地点に戻る。日没前に下山できて良かった。雲が広がってどんよりとした天気に変わっていたが、大坂山の場所が判明して、晴れ晴れとした気分で桐生への帰途についた。
2023-03-18追記:『栃木県市町村誌』p.834に、佐野唐沢の城主佐野宗綱が飛駒村の須花の砦を攻めたが、“大坂山”から狙撃されて戦死した、との記述を見つけた。また、須花坂と“大坂山”の間にある小さな坂道を右近坂と呼ぶ、ともある。すると、須花の砦や右近坂はどこかという新たな疑問が……。“大坂山”の位置については未確定ということで、調査を継続します。
2023-04-08追記:調査の結果は大坂峠〜須花城跡にて。廃神社のある岩峰を大坂山と呼んで差し支えない、という考えに至りました。