稲荷山・松田富士

天気:
メンバー:T

先月、足利百名山№58の稲荷山に登った。この“稲荷山”は、松田川の西岸、境宮神社の裏手にある山である。ところが、台(うてな)一雄著『続足利の伝説』の第二十話「狢谷戸(むじながいど)のお稲荷さま」を読むと、実は、稲荷山は松田川を隔てた東岸にある山であることが判る。同書には、稲荷山についての次のような伝説が書かれている。

昔、松田村と板倉村の間に境界を巡る大論争が巻き起こった。解決に困った両村の代表が稲荷山に登って、お稲荷様にお伺いを立てたところ、社殿裏手の大岩が真っ二つに割れて境界を示した。両村は大岩の割れ目と対岸に建てた境宮神社を結ぶ線を境界と定めた。

この大岩は現存し、割れ目には樫の大木が生えている、とのこと。これは是非、訪問してみたい。という訳で、他の気になるピークやスポットと合わせて、出かけてきました。

稲荷山

行程:足利松田郵便局 10:20 …石碑・石祠 10:55 …稲荷山 11:40 …養命沢入口 11:50 …足利松田郵便局 12:00
ルート地図 GPSのログを地理院地図に重ねて表示します。

先月、足百“稲荷山”を登ったときと同じく、足利松田郵便局の広い駐車場に車を置く。他の駐車はない。前回は気が付かなかったが、駐車場の隅に「栃木縣足利郡三和村役場」と刻まれた石標がある。村役場跡地を郵便局と駐車場としたのかな。どうりで広い訳だ。

因みに後日調べると、三和(みわ)村は1955年に小俣町、葉鹿町と合併して坂西町となり、1962年に足利市に編入されている。

足利松田郵便局から見た足百“稲荷山”
「栃木縣足利郡三和村役場」石標

駐車場からは足百“稲荷山”がすぐそこに見えている。一方、反対側の松田川の向こう岸を眺めれば、テラテラと陽射しを反射して周囲の樹林とは明らかに異質の森が、小尾根の上にこんもりと盛り上がっているのが見える。いやもうこれは、あの森が稲荷山であることは確実だろう。前回、気が付かなかったことが不思議なくらいだ。あのときは、登ろうとしていた足百“稲荷山”の方にしか意識が向いていなかったからなあ。

今日はすっかり春めいて、暑いくらいだ。長袖シャツを脱いで、Tシャツ1枚で歩き出す。そろそろ、里山歩きの季節も終わりが近い。郵便局の裏手の橋で松田川を渡り、しばらく道なりに進んで右折。数軒の民家がある小さな谷に向かう。あの集落が狢谷戸だ。

松田川東岸の稲荷山を望む
狢谷戸入口から見た稲荷山(右)

山裾に近づいた地点で右に小道が分岐する。ここが稲荷山の参道入口で、入って行くと民家の庭に突き当たる。参道は民家の庭を横切っているので、通過の許可を頂こうと思って、玄関先から「ごめんくださ〜い」と声を掛けるが、ご不在の様子。これは困った。

という訳で、ここを通らずに登ることができるルートを探してみる。狢谷戸の北側の尾根の末端には石碑と石祠が数基祀られている。ここから尾根に取り付いて登り、尾根伝いに稲荷山に向かう。大迂回となるが、低山だし、大した労力はかからないだろう。

尾根末端の石碑・石祠
左手には二十二夜塔
石碑・石祠から尾根に取り付く
薄い笹藪のある尾根を登る

疎な雑木林と薄い笹藪に覆われた尾根を登る。道型はないが、藪漕ぎという程の藪もなく、問題なく登れる。稲荷山に至る尾根の下り口は、植林に覆われた斜面で尾根筋がはっきりしない。GPSで位置と方向を確認して下り始める。やがて、なだらかな杉林の尾根の下りとなる。最後は肩程の高さの笹藪に突入。微かなけもの道を辿って突破する。乾燥した天気が続いたため、笹藪を漕ぐと微細な埃が盛大に舞い上がって閉口する。

行道山(左奥)と羽黒尾根を望む
尾根の登りはこの辺まで
右に分かれる尾根を下る
笹藪を抜ける

笹藪をポンっと抜けると稲荷山の頂上で、鬱蒼とした樹林に覆われた境内に石鳥居と神社が建つ。右(北)斜面から参道が上がって来ており、笹が綺麗に刈り払いされている。石鳥居には「稲倉魂命」の額束が掲げられている。『続足利の伝説』には「倉稲魂命(うかのみたまのかみ)」が祭神と記されていて、稲と倉が逆だが、どちらの表記もある模様。

石鳥居を潜ると石垣の上に一対の狛狐と社殿が建ち、その背後に伝説の大岩がある。大岩の背後に回って、割れ目を見る。樫の木かどうかは、樹木の種類に詳しくないので分からないが、節榑立って年を経た幹の大木が生えている。その他、大岩の周囲には「熊野神社」の石碑や「明治十三年十月吉日」の銘のある石祠がある。

稲荷山頂上
伝説の割れた大岩

帰りはどうしようか。さすがに往路を戻る気はしない。参道を下ると民家の庭に出てしまう。地形図を見ると南側の谷に林道が通じているので、そちらの方に降りてみよう。

大岩から南へ、杉林の間のあるかないかの踏み跡を下る。笹藪をちょっと抜けると、三面張りの沢に沿った林道に出る。これを辿ると直ぐに山麓に出て、「土石危険渓流 利根川水系 養命沢」の看板を過ぎ、あっさり車道に出る。なんだ、こっちから登れば良かった😅

南へ下る
沢沿いの林道に出る
養命沢入口
奥から出て来て振り返る
松田川に架かる橋から足百“稲荷山”を望む

あとは車道をのんびり歩き、松田川沿いの集落を通り抜けて、車を置いた郵便局に戻る。駐車が1台増えていた。足百巡りのハイカーさんの車かな。車内でパンとペットボトルのお茶の軽い昼食を済ませ、次の気になるスポットに向かう。

松田富士

行程:松田神社 12:20 …松田富士(240m) 12:55 …松田神社 13:30
ルート地図 GPSのログ(赤:往路、青:復路)を地理院地図に重ねて表示します。

昨冬、羽黒山〜行道山〜馬打山を歩いて、馬打山の西尾根を下った。そのときは、西尾根末端の240m標高点には特に興味を覚えなくて、立ち寄らなかったのだが、その後、「足利百名山№128松田富士」の山名標識がある、とのネット情報に接した。知っていれば立ち寄ったのに。もっとも、山名標識が設置されたのは、つい最近である(山行記録)。

松田神社前の広い側道に路駐。神社の左隣の旧松田保育所(2013年に閉鎖)の前にも駐車スペースがある。松田神社には、1月にわたごさま〜椿山〜松田天神山を歩いた際にお参りしている。神社の前から松田富士が眺められる。小さな里山だが、確かに富士山のような整った形の山である。

松田神社前の側道に路駐
松田川に架かる橋から松田富士を望む

西尾根の登り口は宮前と不入(ふにゅう)の二つの集落の間の小さな峠にある。峠の周辺では白梅が満開で、良い香りが漂う。登り口から笹藪が綺麗に刈り払われた山道を登ると、すぐに稲荷社に着く。

峠から右の山道に入る
稲荷社

社の裏手から尾根を登る。前回、ここは酷い笹藪を搔き分けて下ったのだが、歩く人が増えたのか、笹藪の間に微かに踏み跡が通じ、ピンクテープが点々と残置されて、随分歩き易くなった気がする。小ピークに登り着いて、北に派生する枝尾根に入る。馬打山に向かう主尾根にはピンクテープはないから、松田富士が目当てで歩く人が増えたということのようだ。で、今日は私もその一人に加わる😅

笹藪に覆われた尾根を登る
松田富士頂上

枝尾根に入ると笹藪はなく、雑木林と檜林の境の尾根を辿って、ほんの僅かの距離で松田富士の頂上に着く。頂上は樹林に囲まれ、展望は木立を透かして南麓が眺められる程度。しかし、意外と明るい雰囲気である。真新しい「足利百名山 №128 松田富士」の山名標識と「大黒天」と刻まれた石碑がある。

「足利百名山№128松田富士」の標識
「大黒天」石碑

帰りは往路を戻る。稲荷社から南へジグザグに降りて行く参道山道があるので、好奇心から下ってみたら、最後は不入集落の民家脇のガレージを潜って車道に出た。これはうっかり民家の敷地を通過してしまったかも。こちらに下るのは避けた方が良い。

登り口の峠に戻ると、道端にある短い鉄梯子に気づく。行きは見落としていた。梯子の上には墓地があり、庚申塔や墓石、石祠が多数ある。その中で目を引いた地蔵尊の写真を示す。光背に「千百万偏 為供養也 宝暦九己卯(1759)年十月」の銘が鮮やかに読み取れる。

峠の地蔵尊
「高尾山入口」石標

峠から山裾に沿って松田神社に向かう。途中の道端に、ネット上の山行記録でもよく見た、「高尾山入口」と刻まれた小さな石標がある。高尾山は松田富士のことかな。付近の山裾は民家の敷地が続いていて、登山口らしきものは見当たらない。松田神社に戻り、次のスポットの登り口まで車で移動する。

芝山の250m圏峰

行程:旧松田小学校 13:40 …250m圏峰 14:15 …旧松田小学校 15:05
ルート地図 GPSのログを地理院地図に重ねて表示します。

先日、足利関係の文献を調べていて、柳田貞夫著『松田城と松田 ー足利地方の戦国時代ー』という本を見つけた(国会図書館デジタルライブラリで全文が読め、全文検索もできる)。同書をパラパラと閲覧しているうち、p.62 の次の一文に目が止まった。

物見といえば、字芝山の山頂(鉢形と称する)に芝山物見があったと古老に伝えられている。

芝山物見があったという山はどこだろう。芝山は旧松田小の東、松田川東岸にある集落らしい。物見が置かれるとしたら、芝山集落の北東の220m圏峰か、南東の250m圏峰ということになる。地形図を見ての山勘だが、250m圏峰の方ではないかと言う気がする。

という訳で、次は250m圏峰に登るべく、旧松田小に車を置く。敷地内は立入自由になっている様なので、駐車は問題ないだろう。旧松田小は2000年に閉校されたそうで、大きく立派な校舎がガランとして寂しい。

県道に出ると、向かいに「考古資料 道標」という標識が見えたので、立ち寄ってみる。林道入口に2基の石造の道標と、付近から集められたと思しき石碑が並び建つ。左の道標には「左小俣ヲ経テ桐生方面」、右の道標には「根本山神 五里廿丁」と刻まれている。右の道標について説明板があり、それによると、この道標(市重文)は、松田街道と猪子峠を経由して小俣へ抜ける山道の分岐点に天保六(1835)年に建てられたもの、とのこと。 猪子峠の旧道は、ここが入口だったのか。根本山神の石標は、つい先日、達磨杉峠でも見た。

旧松田小学校
「左小俣ヲ経テ桐生方面」石碑
「根本山神 五里廿丁」道標
青面金剛像

道標の隣には八幡宮がある。最近、風水害があったのか、屋根瓦が修理中で、周囲の樹木は皆伐され、境内には大きな丸太が横たわる。奥の本殿の背後も丸裸。一体、何があったのか。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、と本殿に掲げられている。

八幡宮
八幡宮本殿

旧松田小のグラウンドの南の路地に入る。行く手には250m圏峰が小さいながらもスックと聳える。松田川を芝山橋で渡り、芝山集落の数軒の民家の間を抜けて、芝山沢沿いの林道を奥へ向かう。

250m圏峰を望む
芝山橋を渡る

右手の250m圏峰の斜面はなかなか急で藪も濃く、取り付けそうな場所がない。少し進んだところから、ようやく斜面を登り始める。この斜面は伐採跡地で、作業道跡が残る。しかし、陽当たりの良い斜面には棘のある草藪が繁茂し、とてもじゃないが直登は無理。

芝山沢沿いの林道を上がる
この辺りから斜面に取り付く
伐採斜面の作業道跡
藪が酷い

棘に引っ搔かれつつ伐採地の端までトラバースして逃げる。尾根に乗ると、少し歩き易くなる。急角度に高度を上げ、振り返ると旧松田小のグラウンドと校舎が見おろせる。

尾根に出て急登
旧松田小学校を俯瞰

やがて傾斜が緩まると、250m圏峰の頂上に着く。広くなだらかな頂で、物見があってもおかしくはなさそう。南面は、木立を透かしての眺めだが、松田川の下流方向が見通せる。

250m圏峰の頂上
木立を透かして南を望む

北側は急傾斜の伐採跡地に面しているから遮るものがなく、松田川の上流部の集落と、それを取り囲む猪子山や赤雪山の眺めが展開する。藪山だけど、この展望は素晴らしい。

猪子山(左)や赤雪山を望む
手前が220m圏峰
東へ尾根を辿る

(後日談。『松田城と松田』を見返していて、p.57 の略地図に「伝芝山物見」の記載があることを見つけた。これは芝山の北東にあり、220m圏峰が芝山物見ということが判明。山勘外れてガックシ。まあ、こっちも眺めが良かったから、登った甲斐はあった。)

さて、下山はどうしようか。往路を戻るのは伐採地の草藪が嫌だ。もう少し尾根を先に進んで、傾斜の緩い所を探して下ろう。東へ尾根を辿る。低木の小枝が多少煩いが、藪と言うほどの物はなく、快適に歩く。この尾根を主稜線まで歩くのも面白そうだな。古い赤テープもあり、好事家が歩いた痕跡がある。

緩く下って、246m標高点の手前の鞍部に着く。右斜面は傾斜が緩く、地形図で見ても下まで標高差が小さい。鞍部から右(南)へ下る。

246m標高点の西の鞍部
鞍部から右へ下る

下り始めは落ち葉が積もった少し急な斜面だが、すぐに傾斜が緩み、シダが下生えの杉林の中の下りとなる。程なく林道中手線に出て、谷間の林道を辿る。この谷間は幅広く、かつては田圃があったようだが、今は笹と芒が生い茂っている。

なだらかな杉林を下る
ここで林道に出て来た
中手林道を下る
松田川に沿って駐車地に向かう

やがて民家が現れ、松田川を渡って川辺の道を歩く。道端にはホトケノザの紫の花が一面に咲いている。県道を少し歩いて、旧松田小に戻った。

ここまで、短い行程の里山とは言え3つ登ったので、だいぶ歩いた気がするが、まだ気になるスポットが一つ残っている。最後のスポットへ、車で移動する。

精霊様の墓塔群

行程:「精霊様の墓塔群」入口 15:25 …精霊様の墓塔群 15:30
ルート地図 GPSのログ(往復なので往路のみ)を地理院地図に重ねて表示します。

この冬、足利の山に通い詰めて何度も藤坂峠を車で通るうちに、途中で見かける「精霊様の墓塔群」の案内標識が気になってきた。精霊とはこれまた、ラノベで頻出するようなファンタジーなワードで、場違い感・違和感が甚しい😅。ネットで調べると足利市HPに「精霊さまの墓塔群」のページがあり、それによると戦国時代の墓塔群があるらしい。

案内標識の辺りには駐車スペースがないので、県道を下がった所の道路脇の空き地に車を置く。案内標識から脇道に入って、田圃と民家の間を歩く。最奥の民家から小道となり、竹林の角を曲がると山裾の杉林の中に「精霊様の墓塔群」がある。

「精霊様の墓塔群」入口の案内標識
精霊様の墓塔群

説明板によると、上下二段の墓地のうち、上段に並ぶ五輪塔群が戦国時代(室町時代中後期〜桃山時代)のものだそうだ。階段を登って上段にあがると、斜面に串おでん🍢を連想させる形のお墓がみっしりと建ち並ぶ。特筆すべきは右端の石造供養塔で、「天正十二年七月三日」の銘が読み取れる。天正十二(1584)年とは古くて魂消た。私が見た石造物の銘の中では、最古の日付ではないかと思う。

戦国時代の墓塔が建ち並ぶ
石造供養塔
天正十二(1584)年七月三日

車に戻る途中、住人のおじいさんが表にいらしたので、藤坂山という山があるか、伺った。藤坂峠があそこだから(と眺めながら)、あの辺りの山じゃないか、とのお答えを頂く。ここから眺めると、低く平坦なピーク(319m標高点=足百№15藤坂山)と、その右のちょっと高いピークがそこそこ目立っている。前掲の『松田城と松田』によると、歴史的には今いる所の近辺が藤坂と呼ばれていた地域なので、そこから望む山と言うことで、足百に藤坂山が選定されたのだろう。

足百№15藤坂山(中央左)を望む
墓塔群は中央の山の裾にある

今日は、里山3座と史跡を巡って、気になっていたスポットを訪ねることができた。すっきりした気分になって、帰宅の途についた。