東山〜稲荷山・要害山
このところ忙しくて、先週末は仕事で潰れた。何とか一段落着いたが、気疲れが溜まって、今週末はぐったり。近場の軽い山歩きで気分転換しよう。と言う訳で、またまた、足利百名山巡りをしてきました。
東山〜稲荷山
桐生を朝遅くのんびりと車で出発。先々週の山歩きと同じく、県道松田葉鹿線を走って、松田川の谷底平野を遡る。今日は快晴。昨日降って積もった雪も、既にほとんど消えている。足利松田郵便局の左隣にある広い駐車場の隅っこに車を置く。土日は郵便局は休みで利用者はいないから、差し障りはないだろう。外は2月中旬とは思えない暖かさで、手袋は不要。ザックにULDジャケットとペットボトルのお茶、パン、お菓子を入れて出発する。
今日はまず、ここを始終点として足百№32東山から№58稲荷山へ周回する予定である。どちらの山も確りしたルートはない。稲荷山は三方が急斜面で、事前に見たネット情報では登降に難儀したと書いてあった。念の為、登り口の境宮神社に偵察で立ち寄ってみると、どうやら、先人が赤テープを残したルートがあるようだ(あとで稲荷山から下山する際は、この赤テープが頼りになった)。
下山ルートに目星を付けたのち、東山への登り口の善光寺に向かう。県道を隔てて郵便局の向かいの「山門 附仁王(ふにおう)像」の標識から路地に入る。一瞬、附仁王という像があるのかと思ったが、“仁王像のある山門”という意味ですな。
路地に入り、最初の角を右折。裏山と民家の間を抜け、山間に入ると参道石段の上に定額山善光寺の山門が建つ。楼門の左右には阿吽の仁王像が在わす。山門、仁王像とも古色蒼然としている。説明板に拠ると、江戸時代中期の建築と推測される、とのこと。
山門を潜って参道石段を登ると、境内にぽつんと古びた本堂が建つ。屋根瓦に積もった雪が融けて、軒先から簾状に滴り落ちている。すっかり春の風情だなあ。2週間前のあの寒さはどこ行った(まあ、本格的な春までには、まだ寒暖の繰り返しがあるのだろうが)。
この寺は『続々足利の伝説』の第38話「善光寺の仁王さま」で紹介されている。それに拠ると、体が痛いとき、仁王様の同じ部位に半紙を嚙んで作った紙つぶてをぶつけると、仁王様が身代わりとなって痛みが消えるとして、信仰されていたそうである。現在はガラス窓に囲まれて、紙つぶてをぶつけることは能わない。また、この寺は信州、甲州と共に日本三善光寺の一つ(古老談)だそうであるが、さすがにそれは地元贔屓が過ぎた感じ😅
本堂右脇の墓地の裏手から、浅い谷を登る。最初は微かな道型があるが、すぐに深い落ち葉に埋もれて消える。段々、傾斜が増して登り難くなって来たところで右斜面に逃げて、あっさり枝尾根の上に出る。枝尾根上は、日陰にシャーベット状の雪が残る。藪はなく、傾斜も緩くて歩き易い。
樹林に覆われて展望はないが、冬枯れの木立の間から左手に深高山、右手に前回歩いた松田天神山の尾根が見える。急坂に差し掛かり、5分程で登り切ると東山の頂上に着く。
頂上は樹林に囲まれているが、小広く開けて、明るい雰囲気。三角点標石(点名:熊野)と「足利百名山第32座 東山」の標識がある。稲荷山はここから南の方向だが、ちょっと寄り道して、休憩もそこそこに北へ尾根を辿る。
常緑樹に覆われた坂を少し下ると、幅広くなだらかな尾根となる。冬枯れの雑木林に陽が燦々と差し込み、のんびり歩けて、リラックスできる。やがて、木の間を透かして、行く手が小さく盛り上がっているのが見える。常緑樹林に入って短い急坂を登ると、再び幅広くなだらかな尾根の上に着く。
ここに寄り道したお目当ての「榛名神社」の石碑が建つ。「明治廿四(1891)年七月建之」の銘があり、今から約130年前に建てられたものだ。榛名神社とは、もちろん、榛名山にある榛名神社のことだろう。西の彦谷湯殿山を背にして建ち、その方向を延長するとほぼ榛名山を指す。「根際 窪田」という銘もあり、これらは東麓の集落かな。後日、ネットで調べると、松田町根際には天神山古墳があるらしいが、詳細不明。窪田は久保田かな。
大変に佳い石造物を見、昼食休憩してパンを齧ったのち、東山に引き返す。東山の頂上を通過し、次は稲荷山に向かって尾根を南下する。小さなコブを一つ通過し、二つ目で左寄りに進んで南東の尾根を下り始める。冬枯れの雑木林と緑のヒサカキに覆われた尾根で、緩くなだらか。至極快適に下る。
僅かに登り返して、なだらかな尾根を進むと、小平地の脇の立ち木に「足利百名山第58座 稲荷山」の標識を見出だす。ここが頂上か。展望は木の間越しに限られるが、松田川沿いの集落が近く、南麓の坂西北小の校舎も見える。
稲荷山頂上から赤テープに導かれて南に下る。椿の赤い花を見、樹林帯の急斜面に入る。踏み跡もなく、赤テープを目印に急降下する。程なく、荒れた廃作業道に出る。この道を下って、一度切り返したのち、赤テープでショートカットして麓に下り着く。
下り着いたのは山裾の墓地の端で、この地点は偵察で確認していた。右へ、古い石塔や墓石が建ち並ぶ山裾を辿ると、擁壁の隙間の上に朱塗りの小祠があり、「境宮神社」の扁額が掲げられている。
境宮神社の前から民家の間を通り抜けて、県道に出る。この地点には立派な石造の道標があり、「従是 左/右 大字 板倉/松田 地元字熊野」「松田第一青年會建設」とくっきり刻まれている。駐車地の郵便局は県道を左に辿って、ほんの僅かの距離だ。
今日はもう一座、松田川の対岸ですぐ下手にある足百№54要害山に登る。
要害山の登山口まで車で移動。県道松田葉鹿線を南下すると、斜め左前に小山ながらも均整のとれた金字形の要害山が見えてくる。松田川沿いの道に入り、要害山の真横に来た所で、松田川に架かる出合橋を渡って右折。すぐ先に自治会館と要害山登山口の石鳥居がある。自治会館前の空き地に車を置く。ここは日陰で、雪がうっすら残って肌寒い。
登山口には石鳥居の他、「雷電神社」の立派な社号標や一対の石灯籠、「征露凱旋紀念碑」の石碑がある。石鳥居を潜ると、すぐに一直線で急な参道石段が始まっている。この石段は長くて、どこまで続くか、終点が見えない。石段はあちこち傾きかけているが、それがまた歴史を感じさせて良い。いやー、凄い石段があったものだなあ。
石段の途中に二の鳥居があり、ここまで登るとようやく終点が見える。徐々に傾斜を増した石段を登る。段の間隔が狭いから転落注意。左側に迂回して登る踏み跡もある。
参道石段の終点に登り着いて一息つく。この先は岩尾根の登りとなり、木立が疎らで周囲の眺めが開ける。途中に「山神宮 大天狗 小天狗」の石碑がある。「嘉永六丑(1853)年四月吉日」の銘のある古い物だ。
平坦な頂上の一角に登り着くと、立ち木に「足利百名山第54座要害山」の古い山名標が架かる。頂上からは東を除く三方の眺めが開ける。西側は急斜面で山麓を俯瞰し、松田川沿いの集落や畑地、周囲の低山の連なりを望み、僅かに頂を覗かせる赤城山を遠望する。
頂上の奥に雷電神社の社殿が建ち、中に二基の木の祠が東を向いて安置されている。社殿の軒先に掲げられた扁額は、文字が掠れて読み難い。雨風吹き曝しで、柱も傾き初めて老朽化が進んでいるから、いつまで保つのか、ちょっと心配だ。
頂上の一角の眺めが開けた岩場に腰を下ろし、お菓子を齧りながら、改めてのんびり展望を楽しむ。南には葉鹿の市街や渡良瀬川、その向こうに金山や八王子丘陵を望み、微かに秩父山地の山影を遠望する。小さな山ではあるが、独立峰の趣があって好展望。里山中の名山、“名里山”と言えよう。休憩後、参道石段の段を数えながら下り(247段あったが、数え間違いあるかも)、駐車地に戻る。
帰りは久し振りに地蔵の湯東葉館に日帰り入浴で立ち寄る(750円)。宴会場は大人数の宴会で盛り上がっている。COVIDもようやく終息ですな。温泉の方は空いていて、いくつかある湯船に順繰りに浸かって、ゆっくり温まる。山歩きと温泉でスッキリ気分転換して、帰宅した。
参考URL:ヤマレコpisai5氏「春はすぐそこだけど 足利百名山 二峰」、やまの町桐生「板倉要害山」の記事。