布引観音・皆神山・斎場山

〜2018年1月2日(火)
メンバー:S,S,T

年末年始恒例のS&Sとの温泉旅行。今回は12月30日から1月2日まで3泊4日の日程で、長野県千曲市の戸倉上山田(とぐらかみやまだ)温泉(1泊)と下高井郡山ノ内町の湯田中(ゆだなか)温泉(2泊)に出かけて、周辺の名所旧跡と里山を歩いて来ました。

12月30日
天気:

桐生を朝9時半頃、車で出発。北関東道、上信越道とも特に渋滞はなく、順調に走って佐久平駅に到着。北陸新幹線で11:33着のS&Sと合流して、まずは「むぎの里佐久平店」という店で昼食。私は好物の鴨南蛮蕎麦を頂く。そのあと、今日の宿泊地の戸倉上山田温泉に向かいつつ、途中で二箇所の名所に立ち寄ることにする。

布引観音

行程:駐車場 13:35 …布引観音 14:05 …駐車場 14:35
ルート地図 ルートを地理院地図に重ねて表示します。

最初は小諸市大久保の布引観音(布引山釈尊寺)。「牛にひかれて善光寺」の伝説の舞台となった寺だそうだ。滔々と流れる千曲川を右側に、御牧ヶ原台地末端の高さ100〜150m程の侵食崖を左側に眺めながら車を走らせ、布引観音入口の駐車場(WC有)に着く。車が2台あり、訪れている人が居るようだ。切り立った岩峰が見上げるように高い。

参道の石段を登って、高い岩壁に挟まれた渓谷の中に入る。この渓谷は、規模は小さいがなかなか険しく、布引渓谷と呼ばれている。参道に沿って石仏が点々と立ち並ぶ。北向きの谷で日陰のため、冷え込みが厳しい。水量の少ない滝は凍り付き、大きな氷柱が下がっている。


布引観音入口の駐車場


「布引山観世音」石碑


一丁の石仏


布引二段滝

急峻な渓谷を九十九折の参道で登っていく。途中には馬岩や牛岩と名付けられた大岩や、長野の善光寺まで通じているという善光寺穴(善光寺火災の折に煙が吹き出たと伝えられている)がある。まあ、これらはそういう名前が付いているというだけのポイントだが、険しい岩場に囲まれた渓谷全体が見所である。


馬岩


牛岩

数組の参拝客とすれ違いつつ登ると、右側に聳り立つ岩峰が現れ、その中腹に朱塗りの堂が見えてくる。あれが布引観音の観音堂か。いやー、これはなかなか凄い所にありますな。以前、参拝した三徳山三佛寺の投入堂(国宝)が同じ様に崖の中腹にあったが、崖の高さはこちらが上だ。


布引観音・観音堂を見上げる


仁王門

立派な仁王門の前を過ぎると、布引観音の寺務所に着く。上から車道が通じているので、実はここまで車で来られるが、布引渓谷は探勝しないと損と思う。寺務所の前からも観音堂が良く見える。天気が良ければ右奥に浅間山が眺められるそうだが、今日は雲に覆われて前衛峰の剣ヶ峰までしか見えない。しかし、なかなか絵になる風景だ。一人で来た学生さんが居て、良い所だねー、と共に感心する。

岩壁の中腹をトラバースして観音堂に向かう。途中には白山社という小さな木の社(室町時代の建築)や、岩盤を刳り貫いた天井の低いトンネル、トンネルを抜けた所に六地蔵と恐ろしげな奪衣婆、閻魔大王の石像がある。


寺務所前より観音堂を望む


奪衣婆と閻魔大王

観音堂内に入ってお参りする。岩屋の中に宮殿(くうでん)が安置されているそうだが、暗いのでよく見なかった。観音堂の手摺に近寄って真下を見下ろすと結構な高度感。しかも薄い板子一枚下は何もない空間なので、なかなか肝が冷える。展望を楽しんだのち、来た道を駐車場に戻る。


観音堂


観音堂宮殿

千曲公園(半過岩鼻)

地図 位置を地理院地図に重ねて表示します。

次は上田市街の西端にあり、千曲川を扼するように突き出た半過(はんが)岩鼻に向かう。岩鼻の上は千曲公園として整備され、車道が通じている。

上半透の集落から「千曲公園」の標識に従って薄く雪に覆われた車道を登る。細尾根上の一本道を辿り、突き当たりに駐車スペースがある。そのすぐ先に石祠や東屋があり、千曲川を見渡す眺めが素晴らしい。まず、対岸に虚空蔵山がゴツゴツした稜線を連ねている。


千曲公園先端の東屋


千曲川を隔てて虚空蔵山を望む

右(南東)には広々とした上田盆地と塩田平を見渡し、浅間連峰の烏帽子岳や塩田平に臨む独鈷山を遠望する。


千曲川上流、上田盆地を望む


塩田平を望む

左(北西)を眺めれば、虚空蔵山から千曲川に落ちる稜線が最後に突き出た塩尻岩鼻が見える。一番奥に見える白い山は戸隠連峰だろうか。陽が既に傾いていて、こちら側の千曲川は山陰に入り、強烈に冷たい風が吹き付けてきて凍え上がる。一通り展望を楽しんだのち、寒風から退散して車に戻る。


千曲川下流を望む


上田道と川の駅より半過岩鼻(左)と
塩尻岩鼻(右)を望む

あとは上田道と川の駅(年末年始休業中)に立ち寄ったのち、宿舎の戸倉上山田温泉の老舗、笹屋ホテルへ。すっかり体が冷えたので、すぐに温泉に入って、ゆっくり温まった。

12月31日
天気:のち

大晦日の今日は、次の宿泊地の湯田中温泉に向かう途中で、善光寺平南部周辺の名所旧跡や里山に立ち寄ることにする。

森将軍塚古墳

行程:科野の里歴史公園駐車場 10:15 …森将軍塚古墳 10:45〜10:50 …科野の里歴史公園駐車場 11:20
ルート地図 GPSのログ(赤:往路、青:復路)を地理院地図に重ねて表示します。

笹屋ホテルをチェックアウト。まず、森将軍塚古墳に向かう。

森将軍塚古墳は標高約480mの尾根上にあり、平野からの比高は約130mある。地形図を見ると北麓から車道が登っているが、これは山麓の森将軍塚古墳館から出ている見学バスの専用道路らしく、しかも冬季閉鎖中である。

という訳で、森将軍塚古墳館の駐車場に車を置いて、歩いて登ることにする。ここには隣接して長野県立歴史館もあり、古墳と合わせて「科野の里歴史公園」として整備されている。なお、今日は古墳館、歴史館とも年末年始の休業中である。残念。


戸倉上山田温泉笹屋ホテル
客室から中庭とラウンジの眺め


科野の里歴史公園
正面の尾根の上が森将軍塚古墳

数cm積もった雪を踏んで、ジグザグに登る車道とカーブをショートカットする歩道を登って行く。地元の方の散歩コースになっているようで、ポツポツと人に行き合う。


近道の木道階段を登る


見学バス(冬季運休中)専用車道を歩く

尾根上に登り着くと、石垣に覆われた大きな前方後円墳がある。発掘後に復元整備された物とのことだが、これだけの量の石を山上に運び上げるのは現代でも(経費的に)大変だろう。

古墳の先端の後円部に登ると、善光寺平を見渡す展望が得られる。説明板によると、千曲川両岸の自然堤防によって仕切られた後背湿地で稲作が始まり、弥生時代にはたくさんのムラができ、やがて「科野(しなの)のクニ」と呼ばれる政治的なまとまりができた。代々の有力者は大和王権と深い関係を結び、巨大な前方後円墳を築いたとのこと。


森将軍塚古墳


古墳の上から科野を俯瞰
左に北陸新幹線、右に上信越道が通る


古墳の上から飯縄山を遠望


森将軍塚古墳全景
手前が前方部、奥が後円部

当初はここから尾根伝いに有明山(652m)まで往復しようと思っていたが、ここで得られた展望で満足したし、雪も深いので、またの機会に行くことにして、駐車場に戻る。

皆神山

地図 位置を地理院地図に重ねて表示します。

次のスポットに行く前に昼食。R18沿いの「おじぞう」という店に入り、長野の郷土料理のぶっこみ(味噌煮込みうどん)を食べる。これはなかなか美味かった。値段も手頃だし、車でアクセスしやすい所にあるので、また来るかも。

次の訪問地は松代の皆神山。地形図を見ても分かる通り、周囲の山から切り離されて饅頭のように盛り上がる山だ(後述のように、溶岩円頂丘とのこと)。上信越道の長野IC付近からもよく見えて、通りがかる度に気になっていた山だ。さらには松代群発地震の震源地であったり、第二次世界大戦末期には首都機能を遷都させる計画で地下壕が掘られたり、「太古に作られた世界最大のピラミッド」説があったり、アニメ『世紀末オカルト学院』で頂上に学校があるという設定の山だったり、ググるといろいろなネタ話が満載(^^;)の山でもある。


酒・食事処おじぞう


南麓から望む皆神山

松代市街を抜け、皆神山の南東山麓の平林集落から「皆神神社ピラミッド参道入口」の案内看板に導かれて、山上への細い車道を上がる。途中の中腹には岩戸神社がある。古墳の横穴に天照皇大神を祀り、ピラミッドの入口と看板に書かれている。


皆神神社ピラミッド参道入口


皆神山中腹の岩戸神社

頂上部分はなだらかで、冬なので何を作っているのかは分からないが、ちょっと荒れた感じの畑地が広がり、展望が開けて来る。突き当たりに皆神神社の山門があり、向かって左側の駐車場に車を置く(右側にも広い駐車場有り)。山門は正月の飾り付けがされて、初詣の参拝客も多そうな感じだが、今日は辺りに人の気配はない。


頂上部から善光寺平の展望


皆神神社山門

鬱蒼とした杉木立ちに囲まれた境内に入ると立派な社殿がある。さらに右奥に熊野出速雄(いづはやお)神社本殿があり、参道を奥に進むとゆるく登った高点に冨士浅間神社がある(皆神神社はこれらの社の総称とのこと)。


皆神神社社殿


熊野出速雄神社本殿


大本教祖「出口王仁三郎」石碑


右奥に参道が続く


冨士浅間神社


神社裏手から飯縄山の眺め

皆神山に登ったネット上の記事を読むと、以前は皆神山の山上にはショートコースのゴルフ場があり、冨士浅間神社の三方をコースが取り囲んでいたとのこと。確かに神社の周りを帯状の空き地が取り巻いている。しかし、雪に覆われて定かではないが、どうもゴルフ場は既に営業を止めているようだ。

皆神山の最高点は皆神神社の東にある高みで、以前はゴルフコースを横断しなければ行けない場所だったそうだが、今日は行くのに問題はなさそうだ。行ってみると赤鳥居と瀬戸物のお稲荷さんが多数置かれた石祠、三寳大神と刻まれた石碑があり、山頂らしい雰囲気。ただし、すぐ隣に太陽光発電のパネル群が設置されていて、ちょっと目障りである。


東の高みを目指す


皆神山頂上

山門向かって右側の駐車場には「皆神神社 参拝者駐車場」の看板と共に「世界最大で最古の皆神山ピラミッド」という看板があり、トンデモ科学的な解説が書かれている。これは昭和のオカルトブームのときに作られたものかな。だいぶ古くなって、文字が擦れている(翌日の話だが、『ノストラダムスの大予言』の五島勉氏が、大予言を信じ込んでしまった子どもたちには謝りたいと語った、というニュースがあった)。

他の説明看板は真面目だ。興味深い話が含まれているので、テキストに起こしておこう。

皆神山は豊栄のシンボルであり、豊栄に住む人々の心のよりどころとなって、地域の発展を祈り、守り続けてきた山である。

標高は679メートル、まわりが8キロにおよぶ皆神山は今から35万年前に、堆積作用が進行していた長野盆地の一隅に噴出した輝石安山岩の火山である。この溶岩は粘り気が強く、流れにくいマグマが地表に上がってきて、冷えて固まって丸みを帯びた山頂と急傾斜の斜面をもつ溶岩円頂丘(溶岩ドーム)となった。中央のくぼみは噴出した溶岩が地下に逆戻りしたことを示している。この山の安山岩は見た目で鉄分の多い赤石と少ない青石の二種類があって、豊栄や松代町内の石仏、墓石に多用され、松代城の石垣にも使用されている。

山頂には三つの峰があって西の峰、中の峰、東の峰と呼ばれている。かつては各峰にお宮があって(熊野三社権現)、600年前に中の峰に合祀され、現在に至っている。8合目より上の土地は江戸時代まで朱印200石の和合院領であった。かつての呼び名は「群神山」あるいは「水上山」で、慶長年間から皆神山となった。

最高点は東の峰ということになる。豊栄は、後日調べると豊栄(とよさか)村(現在の長野市松代町豊栄)のことらしい。次は群発地震と大本営跡関係のスポットに向かう。

松代地震観測所

地図 位置を地理院地図に重ねて表示します。

気象庁松代地震観測所は、皆神山の南西、舞鶴山(560m)の南麓にある。見学についてはこちら。うっすらと雪が積もる谷間の集落を通ると、観測所の案内看板と大型車用駐車場、大坑道入口がある。さらに神田川を渡り、狭い車道を上がると、観測所の三つの庁舎と駐車場がある。駐車場には2台の車が置かれていたが、他に見学者はいない。休日出勤の職員がいるのかな(現在、職員は常駐していないそうである)。

こちらは「天皇御座所予定地跡」を建物の外から窓越しに見ることができる。説明板によると天皇の居間兼寝室として作られ、広さは15畳1間(現在は仕切られて2間)。秋田杉など高級な材質が用いられているというが、見かけは質素な普通の部屋である。本土決戦に備え(そうなったら完全に負けだろう)、天皇をここへ移してまで戦争を続行しようとした軍部の考え方は理解不能だ。


松代地震観測所


天皇御座所

少し戻って、大坑道入口も見学して行く。と言っても、坑道内を覗き込める訳ではないので、入口を眺めるだけだ。大本営跡地と地震観測所の沿革については、ここに長野市が立てた「松代舞鶴山地下壕(気象庁松代地震観測所)」の説明看板にうまく要約されていると思うので、これもテキストに起こしておく。

松代大本営地下壕は、舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山、象山に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約十キロメートル余りに及んでいます。

ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。

第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日から翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全行程の約八割が完成しました。

この建設には、当時の金額で一億円とも二億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。

なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的でなかったなど、さまざまな見解があります。

松代舞鶴山地下壕は、現在は世界屈指を誇る気象庁の地震観測所として使用され、高倍率のひずみ地震計をはじめ、各種高性能観測機が設置されています。

軍事目的で掘られた穴が地震観測に役立った(そして、その後の群発地震の観測により、地震予知研究が大きく進歩した)というのは、不幸中の幸いみたいな因縁である。


松代舞鶴山地下壕


象山神社社殿

象山神社

地図 位置を地理院地図に重ねて表示します。

次は松代市街にある象山(ぞうざん)神社にお参りする。幕末の思想家で維新の「大先覚者」佐久間象山(しょうざん、地元ではぞうざん)を祭神とする。社殿の前には門松が置かれ、新しい紙垂や紅白幕が張られ、新年を迎える準備が整っている。参拝客もちらほら見かける。

神社のすぐ南に象山(476m)があり、頂上には東屋が見える。象山山麓の松代象山地下壕は壕内の見学が可能だが、年末年始はお休みで残念。象山に登ってみようかとも思ったが、時間が尽きたので今日の名所旧跡・里山巡りはここまでとし、宿舎に向かう。皆神山、舞鶴山、象山を合わせて松代三山と呼ぶそうである。機会があれば、舞鶴山、象山にも登ってみたい。

今日の宿舎は湯田中温泉美湯の宿。温泉街を一望する高台にあり、眺めが良い。外国人旅行者が多くてびっくり。仲居さんにも外国人が多い。温泉に入り、夕食を美味しく頂いたらすぐにぐっすり眠ってしまい、年を越した。

1月1日
天気:

明けて2018年。客室の窓から眺める温泉街は濃い霧に包まれていたが、やがて晴れて青空が広がった。


湯田中温泉美湯の宿から
夜間瀬川上流の眺め


同じく
夜間瀬川下流の眺め

今日は長野市HP「トレッキングコースのご案内」を参考にして、坂中峠から三登山(みとやま、923m)に登ろうと思ったのだが、坂中峠への旧道に入って坂中集落を抜けたところで雪が深くなって断念。三登山南麓にあり、途中で通りがかった蚊里田(かりた)八幡宮に戻って初詣をする。周辺は長野市郊外の住宅街だが、神社の由緒は古く、初詣客が多い。ここから三登山に登るコースもある。また、課題の山が増えてしまった(^^;)。


蚊里田八幡宮


野尻湖

時間が余るので、長野市から坂中トンネルを抜けて飯綱町に入り、野尻湖にドライブする。気候区分では北陸に近い地域なので、格段に雪が増える。昨年は雪不足で雪山にも行かなかったから、2年振りにたくさん雪が見られて嬉しい。野尻湖はびゅうびゅうと雪が吹き付ける天気で、湖畔のペンション街にも人影なし。

車の通りも少ないR18を走り、R292の道の駅「北信州やまのうち」で昼食。サバタケそばを食べる。なお、サバタケ™とは根曲がり竹+水煮缶詰のサバで、山ノ内町の名物だそうである。根曲り竹はシャキシャキして美味いが、サバは味噌煮の方が私は好きかな(^^;)。宿舎に帰り着くと、ちょうど天皇杯サッカー決勝戦のTV中継が始まるところだった(セレッソ2-1横浜FM)。

1月2日
天気:

温泉旅行最終日の今日は、帰りの新幹線が佐久平14:23発なので、そちらに戻りつつ、名所旧跡と里山に立ち寄ることにする。雪が降っていて、車の上には5cmくらい雪が積もっている。スノーブラシで雪かきしてから出発。湯田中から降って長野市街に入ると、雪は止んで青空が広がる良い天気となる。

八幡原史跡公園(川中島古戦場)

最初は八幡原(はちまんぱら)史跡公園。武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いで、最大の激戦があった古戦場として有名な場所だ。芝生に覆われた緩やかな起伏のある公園を一周して散歩する。ここにも佐久間象山先生を讃えて銅像が立つ。博物館は年末年始休館中。


「佐久間象山先生」銅像


公園内には芝生が広がる


長野市立博物館・プラネタリウム


博物館の池のカモ

古戦場関係の史跡は八幡社の近辺に集中している。八幡社は、平安中期に八幡大神をご神木の大欅に包まれる鞘堂に祀ったことが始まりとのこと。武田信玄の陣形跡や信玄・謙信一騎打ちの銅像、敵味方6千余の戦死者を葬ったと伝わる首塚(屍塚)を見て回る。


鞘堂(左)、ご神木の大欅と
八幡社社殿


信玄・謙信両雄一騎討ちの銅像

次は、上杉謙信が陣を張った妻女山(さいじょさん)に行ってみよう。

妻女山展望台〜斎場山

行程:駐車場 11:20 …妻女山展望台 11:25 …斎場山(513m) 12:00〜12:05 …駐車場 12:25
ルート地図 GPSのログを地理院地図に重ねて表示します。

R403を松代から更埴へ走ると、「妻女山展望台」の案内標識があり、左折。上信越道をガードで潜り、ジグザグ道で尾根上に登り着くと駐車場があり、車を置く。ちょっと戻ると松代妻女山招魂社(戊辰戦争の松代真田藩の戦死者とその後の終戦までの松代の戦没者を祀る)と展望台がある。展望台からは川中島平を俯瞰し、松代市街や尼巌山〜奇妙山、皆神山が眺められる。


松代妻女山招魂社


妻女山展望台


展望台から川中島平の眺め


展望台から奇妙山(左)と
皆神山を望む

ところで、『信州の里山トレッキング 東北信編』によると、上杉謙信が本陣を置いたのはここ(現在の妻女山)ではなく、南西に少し登った斎場山(さいじょうざん)だそうである。さらに妻女山は、赤坂山が本来の山名だそうである。ややこしい。斎場山までは20分程の距離とのことなので、登ってみることにする。

駐車場まで戻り、その先の林道のY字分岐を右の未舗装林道に入る。薄く雪が積もった林道を辿ってジグザグに登る。所々に「あんずの里ハイキングコース」の道標がある。


妻女山展望台の駐車場


林道を辿る

やがて尾根上に登り着いたところが長坂峠で、林道は左の尾根沿いに続いて行く。右には「妻女山 斎場山→」の道標があり、幅の広い山道が通じている。すぐ先に見えている小ピークが斎場山の頂上だ。


長坂峠


斎場山頂上はこの上

頂上は赤松に囲まれて展望はあまり得られないが、小広い平地に一脚のベンチがあり、休憩適地。今回の旅行で最も山らしい頂上だ。といっても登り僅か30分だが(^^;)。「斎場山山頂」「妻女山山頂」の他、「五量眼塚古墳」「斎場山古墳」の標識もあり、古墳がピークになっているらしい。ミカンを食べて一休みしたのち、往路を車まで戻る。


斎場山頂上


斎場山から天城山を望む

これにて、温泉旅行の名所旧跡・里山巡りの全行程を終了。雪が多くて三登山に登れなかったことは残念だが、他にも課題の山がたくさんできたので、また来る機会もあるだろう。佐久平駅近くの桃花という中華料理店で遅めの昼食(五目焼きそば美味かった)をとったのち、北陸新幹線で帰るS&Sと駅で別れて、桐生への帰途についた。