吾妻山〜鳴神山
この週末、土曜は曇りで、家で過ごす。日曜も「雨昼前から曇後晴」という予報で、朝まで山歩きは考えていなかったが、9時頃から陽が射し始めて、天気は早めに回復しそう。体が鈍っても困るし、どこかの山に出かけるか。とは言っても出遅れているので、地元の吾妻山〜鳴神山をトレーニングがてら歩くことにする。最近では3年前に同コースを歩いている(山行記録)。鳴神山のアカヤシオは終盤と聞いているが、少しは見られるだろう。
途中のコンビニで昼食を買い、吾妻公園の駐車場からスタート。天気が良くなってきたので、吾妻山を登りに来た桐生市民の車が続々とやってくる。吾妻公園はヤマツツジとチューリップが満開。中腹の陸橋では、消防団の方々がハイカーに山火事注意を呼びかけて、ティッシュを配っていた。年間の山火事の半分以上が3〜5月の間に発生しているそうである。記憶に新しい仙人ヶ岳の山火事も4月だった(確認したら4年前のちょうどこの日)。
昨晩から今朝にかけての雨は大した降りではなかったようで、山道もちょっと湿った程度。登り始めたら雲が多くなってしまった。まあ、雨が降らなければ御の字だ。吾妻山の頂上から俯瞰する桐生市街も、どんよりとした空の下、乳白色の靄に覆われている。頂上の真ん中には、いつの間にかオダマキ?が生えていて、紫色の花が開き始めていた。
村松峠から萱野山へ登る途中に左(西)側が伐採された区間があり、新緑が広がる里山の山並みや赤城山が眺められる。黒檜山の頂上には雲が棚引き、こちらも稜線を西から東へ吹き越す風がとても強い。
萱野山の肩を越え、岡平に登る。この辺りは若い植林帯で、吾妻山や桐生市街の眺めが良い。ツリーシェルターに巻かれた杉の苗木は、3年前はちゃんと育つのか心配になるほどひょろひょろだったが、今では丈が高くなり、葉が茂って逞しく育っている。さらに育って、展望が遮られるのも遠い先ではない。
ここでいつの間にかソロのおじさんに追い付かれ、追い越される。速いなあと驚いていたら、ごく普通のハイカーさんの装備・服装なのに走り去って行ったので、二度びっくり。
岡平から大形山までは芽吹き始めた雑木林のなだらかな尾根を辿る。途中、トレランの女性二人組とすれ違う。今度はちゃんとトレランの格好だから驚かない。大形山の頂上を過ぎ、金沢(かねざわ)峠に向かって急降下。
峠から登り返し、三峰山の頂上で一本立てる。女性ソロハイカーさんが吾妻山へ向かって通過。既に13時に近くになり、腹が減ったが、頑張って鳴神山まで行って昼食にしよう。ブロックチョコを齧り、水を飲んで当座を凌ぐ。ここの「三十六童子を経て名久木登山口へ」との道標は健在だが、そちらへの道型はほとんど消えている。
三峰山から幅広い尾根をゆるゆると登って、三角点標石のある花台(かでい)沢の頭へ。稜線を吹き越える風が一段と強くなる。新緑の稜線を辿り、植林帯を抜けると、鳴神山の肩の広場に着く。ここには昨年7月に建てられた「なるかみ小舎」なる小屋がある(桐生タイムス「鳴神山「肩の広場」に手づくり小屋が完成」)。
まずは桐生岳の頂上へ。アカヤシオの季節にはとても賑わう頂だが、もう終盤との情報がネットで広まっているし、加えて今日のこの天気、遅い時間帯ということもあって、誰もいない。確かに、頂上周辺のアカヤシオは既にピークを過ぎて枯れ始めている。しかし、仁田山岳を見ると、まだピンク色に覆われていて、遠くから見れば粗が目立たなくて、なかなか綺麗。今シーズンのアカヤシオは、多分これで見納めだな。
天気が良ければ頂上でアカヤシオと展望を楽しみながら昼食にしたいところだが、風が強くて寒いので、なるかみ小舎に入ってみる。中には誰も居ない。カーペットが敷かれて、靴を脱いで上がる。掲示されている利用上の注意書きによると、小屋は「雷神山を愛する会」の会員が優先的に利用し、空いているときや緊急の場合には自由に利用可能、火器はガスボンベ以外使用禁止、とのこと。持って来たのがガソリンストーブではなく、ガスストーブで良かった。
という訳で、ありがたく利用させて頂く。ゴウゴウと外を吹き抜ける風の音を聴きながら、お湯を沸かしてカップ麺のカレー力うどんを作り、ぬくぬくと温まりながら食べる。
最後にササッと清掃してから、小屋を辞す。募金箱もあったが、財布を持って来ていないので、次に鳴神山に登る機会にということで、ご容赦を請う。
後は往路を戻る。概ね下りだから、行きよりも楽で早い。三峰山辺りで、ようやく陽が射し始め、予報通りの天気の回復が兆す。新緑に覆われた大形山を眺めながら金沢峠に下って、大形山へ急坂を登り返す。岡平を過ぎ、陽光を浴びる桐生市街を再び俯瞰する。
村松峠から吾妻山への急坂が最後の登りとなる。吾妻山の頂上も既に無人。桐生市街を一望したのち、吾妻公園に下る。駐車場に戻った時にはすっかり日が傾いていて、たくさんあった駐車も私の車の他にはもう一台を残すのみであった。