兜岩山
5月14日に、Kさんに同行頂いて、栃木百名山の一座の雨巻山(あままきさん)に登る計画を立てていたが、あいにくの雨でお流れ。次の機会として27日を予定したが、前日の夜にGPV気象予報を確認すると、雨巻山の辺りは当日午前中まで雨域に入っている。西から天気が回復するので、西上州ならば午前中から晴れそうである。
そこで、急遽行き先を兜岩山に変更。兜岩山は荒船不動尊から登ったことがある(山行記録)。今回は最短コースの田口峠からの往復で登ることにして、出かけてきました。
当日の朝起きると、雨が強く降っている。Kさんを車に乗せて、桐生を予定通り朝7時に出発。北関東道、上信越道を走る間に雨は止んで、西から青空が広がり始める。高速を下仁田ICで降り、南牧村の奥に向かう。観能で右折して馬坂(まさか)川沿いの車道に入ると、幅が狭まって対向車とすれ違うのも困難な道となる。
途中に長野県佐久市の道路標識があり、ここから長野県に入る。両側に岩壁が峙つ狭岩(せばいわ)峡の谷底を走る。山間に忽然と現れる広川原の集落を過ぎると山腹を登る羊腸の車道となり、よくまあこんなぐねぐねの道を通したものだなあ、と感心する。カーブ毎に「第○○号カーブ」との標識があり、田口峠まで92のカーブがある。
田口峠の少し手前のカーブの内側に広い駐車スペースとWCがあり、ここに車を置く。外に出ると初夏のような日差しが照りつけて暑い。最初からTシャツ1枚になって歩き始める。車道を通る車はほとんどない。
ヘアピンカーブを三つ回って、田口峠を抜けるトンネル(第一隧道)の入口に着く。「田口峠」の案内標識があり、立岩の眺めが良い。トンネルに入ると、冷んやりとした風が吹き抜ける。トンネルを出てすぐ右が兜岩山登山口だ。道標はない。
樹林の中の朽ちた木の階段道を上がると、すぐにトンネルの上の稜線に出る。まだ瑞々しい緑に覆われた幅広い稜線を緩く登ると、ナツツバキの幹に「旧田口峠」の標識があり、左右の斜面に明瞭な道型が残る。ここから一段上がったところには、かつての往来を見守ったであろう石祠が祀られている。
枯れた篠竹(すずたけ)が一部にパサパサと残る稜線上の登山道を辿る。緑の中にポツポツと真っ赤なヤマツツジが咲く。稜線の右側は急斜面だが、左側は緩斜面で高原的な雰囲気がある。
やがて小さなピークに登り着いて稜線は右(東)に曲がる。北西の枝尾根上に1265m三角点があるので、Kさんにはここで一休みして貰って、ちょっくら往復してくる。枯れ篠竹藪に薄く覆われた枝尾根を辿ると、三つの標石がある小ピークに着く。そのうちの一つは苔むした標石で、一面が磨かれて「三角點」と深く刻まれた文字が読める。もう一つは御影石の標石で「四等三角点 国地院」と刻まれている。どうも前者が古い標石、後者が新しい標石のようだ。新旧二つの三角点標石が並んでいるのはなかなか珍しい。
縦走路に戻って東へ稜線を辿る。小さなアップダウンが続き、「米はかり峠」と書かれた標識と、潰れた石祠、首のない地蔵尊像のある地点に着く。稜線の左右にはやはり峠道の痕跡が残る。
米はかり峠から短いが急な坂を上り、再び小さなアップダウンを繰り返す。稜線の右(南)側は急斜面や岩壁となっているが、樹林に覆われて隠れがち。しばらく稜線を辿ると右側に突き出た眺めの良い岩場があり、緑に覆われた南牧谷が俯瞰できる。
時々、左手の樹林を透かして、その名の通り兜のような円頂の兜岩山を望む。左が緩斜面になると、やがて兜岩山分岐に着く。
分岐には道標があり、稜線上を直進する道は「ローソク岩・御岳山を圣て星尾峠に至る 1.7km」とある。ここで左折して、枝尾根を兜岩山に向かう。右手の木の間にローソク岩が見える。太い円柱状の岩峰で、正に蠟燭。その左には子ローソクと孫ローソクの岩峰がポツンポツンと並ぶ。
枝尾根を最後に緩く登って、兜岩山の頂上に着く。小さな平地に三角点標石がある。樹林に囲まれて展望はないので、すぐに西の展望台に向かおう。
展望台は西側に開けた見晴らしの良い岩場だ。歩いてきた田口峠からの稜線や霊仙峰、佐久側に緩やかに広がる山並みが広がる。ただ、天気の回復は足止め状態で、高い稜線は雲に隠れ、八ヶ岳を遠望することはできない。
少し傾斜のある岩場に平らな所を探して腰を下ろし、Kさんに用意頂いたサラダやパストラミハム、パン、コーヒーの昼食を頂く。1時間程のんびり過ごしたのち、往路をそのまま戻って駐車地点に帰った。
帰りに、羽沢にある南牧村民俗資料館に立ち寄る。旧尾沢小学校の校舎を利用し、1階から3階の教室に南牧村の生産生業(蒟蒻、養蚕、和紙、砥石、林業等)や文化に関する古い物品約5,000点が展示されている。管理人の方に詳しく説明頂いて、色々興味深い話を伺った。おすすめ。また、ここで南牧郷土研究会刊行の『南牧谷戦國史』を入手。それから、信濃屋嘉助でお土産を買って、桐生に帰った。
追記:『南牧谷戦國史』はまだ読んでいる途中だが、南牧村についての貴重な資料で、読み物としても大変面白い。特に、群馬・長野県境線が田口峠、霊仙峰付近で中央分水嶺から外れて群馬側の遥かに低いところに引かれている理由が示されていて、とても興味深い。ざっくり要約すると、馬坂川上流域の斜面は馬牧(うままき)の適地で、古くから南牧谷の馬は骨太で逞しく、合戦や農耕に適すると注目を浴びていた。東国を代表する御牧(みまき)であった望月牧(信濃国佐久郡)の隠し牧として、中世より信濃の牧の領主によって支配され、信濃領であった、とのことである。