余地峠〜広古屋山〜大上峠〜のこぎり岩
先日、ククリ岩と二子岩に登ったとき、西方の群馬・長野県境稜線上にゆったりと盛り上がる広小屋山(1485m三角点峰)を眺めて、あの山は登ってみたいな、と思った。この辺りの県境稜線は南牧村の最奥部にあたり、信州に抜ける三つの峠、余地(よじ)峠、矢沢峠、大上(おおがみ)峠がある。大上峠は舗装道が越える現役の峠だが、残りの二つは往来の絶えた峠で、これらの古の峠を訪ねるのも趣がありそうだ。
広小屋山について調べると、MHCの椛澤さんが著書『群馬の県境を歩く』で余地峠〜大上峠を歩いた際に登頂したことを書かれているほか、ネット上にも多くの山行記録がある。昔の記録を見ると、篠竹(スズタケ)藪が酷く、非常に難儀したようだが、最近の記録によると篠竹は枯死し、明瞭な踏み跡が通じて、藪漕ぎの労は少なくなったようである。
なお、「広小屋山」の山名について。『Mountain Walk』の「広古屋山」の記事で指摘されているように、地元の佐久穂町のHPで広古屋山としているほか、点の記でも点名と俗称が広古屋となっているので、この記事では以降、広古屋山と表記することにします。
桐生を5時に車で出発。上信越道を下仁田ICで降りて南牧村を走り、先日来たばかりの三段の滝登山口を過ぎて、熊倉集落の入口で佐久町・大上峠に向かって左折、林道大上線に入る。橋を渡ってすぐのところで、熊倉川にかかる熊倉不動滝(落差約10m)を車道から眺めることができる。
車道は高い岩壁と岩峰に狭められた谷底を走る。岩佐徹道著『群馬の峠』の矢沢峠の項では、ここを大上峡谷と称している。峡谷を抜けると、行く手に1410m標高点辺りの県境稜線を仰ぐ。
数軒の民家がある大上集落を通り、杉林に覆われた緩斜面をつづら折れで登ると南牧村自然公園に着く。県境稜線を仰いで急斜面を背にし、立岩や碧岩などの南牧村の山々を見渡す眺望の地にあり、キャンプ場やバンガローなどのアウトドア施設が緩斜面に点在する。管理棟の向かいに駐車場がある。GWとあってキャンプ客の車が数台あるが、スペースに余裕があるので、ここに車を置いても問題ないだろう。既に標高970mの高所で、車から出ると早朝の冷たい空気に包まれる。避暑には最適だな。駐車場入口には冷たい「岩清水の湧水」が引かれている。
駐車場の一角に「余地峠懐古の碑」の立派な石碑が建つ。南牧郷土研究会が1990年に建立したものとのこと。碑文を読むと、余地峠の歴史がよくまとめられており、いろいろ興味深いことが書かれているので、長いが全文をテキストに起こしておこう。
余地峠は標高一二六八米。群馬、長野県境の稜線上に立地し、妙義、荒船、佐久高原国定公園に含まれる。由来峠は神佛や霊魂に行きあう場であり、山間の村と村を結ぶ經済、文化の重要な結節奌にあたるため、人々は峠に霊を想い、遥かな山並みを越える手向けの道として崇拝してきた。
この余地峠は地理的に群馬県南牧谷と、長野県南佐久を結ぶ古来からの主要幹線道路の一つである。この古道を山麓の人々は生活の道として馴れ親しみ、群馬側では熊倉道、佐久側では余地峠道と呼んでいる。江戸時代の古絵図をみると、この古道を甲州通りと標記したものもある。交易が甲斐にまで伸びていた証左であろう。その物資輸送は主として信濃側の米が南牧谷に運ばれ、南牧谷生産の子馬、砥石、紙、こんにゃく、ねぎなどが信濃へ輸送されていった。その賑わいは砥沢に米市場や関所が設けられて、余地峠はまさにその商品流通の要所として、馬子唄が流れ、人馬の往来が絶えなかったのである。婚姻関係も繁く、時に馬の背に花嫁御寮がゆれていく旅情もみられた。
またこの峠は戰国時代、英雄武田信玄の上野侵略の軍用道路として名を馳せ、人口に膾炙している。その史実を記録する名著甲陽軍鑑をみると、国峰城主の小幡信実の誘導で余地峠をこえ、永禄三年五月西上野の小城三ヵ所を陥し入れた信玄は、永禄四年ころには国峰城を信実のため奪取、南牧六人衆なども取り立てている。また武州松山城攻撃の際もこの峠を越し、さらに永禄七年から同九年へかけて、倉賀野城、松井田城、安中城、箕輪城等、西上野の要所を窺い、この峠を利用してついに西上野を平定、静謐をもたらした。そのため史跡として、信濃側には佐久町余地の勝見城、花岡の烽火台、大日向の大涯城、熊倉と深い関係をもつ自成寺などがある。一方南牧谷には熊倉の東城、西城、大向いの砦、秋葉山の砦、久保尻の烽火台など密集し、甲陽軍鑑の記録を史実の上から裏付けている。さらに南牧谷を下ると砥沢に有名な砥沢城がある。信玄の上野攻略の兵站基地として駐屯した由緒をもち、この谷にはさらに星尾城、羽沢城、布山城、笹平城、小沢城等が点々と連なり、そのため村の伝説にも熊倉の信玄の鐙はずし、物見山、馬乘り岩、駒寄せ、六車の荷つけ石などが見られる。
いまこの余地峠に立ち、その昔を懐古するとき、勇み立つ駒のいななきがさこそと聞こえるがごと、山河の鳴動、風声の響き、古戰場の趣きを伝え、峠はまさに粛然たり。今回地元の有志ら相図り、余地峠頂上に感懐の記念碑を建てんと発企する。その報効の義挙を聴き、歴史作家上野晴朗、欣然として請託をわかつため撰文する。
南牧村は、かつては信州との結びつきが強かったことがわかる。最終段落を読むと、この碑は本来、余地峠の現地にあって然るべき物と思われるが、現在、ここにあるのは何故だろう。まあ、こちらの方が人の目に触れる機会が多いとは思う。
南牧村自然公園から出発して、少し戻った所から分岐する車道に入る。新緑に覆われ、道端にはヒトリシズカが咲く。車道のところどころから南牧村の山々が眺められる。
やがて舗装が終了してT字路に到着し、かつての余地峠道に合流する。余地峠は左へ。ゲートがあり、ここまで車で入れる。一方、右は象ヶ鼻に下る峠道だが、杉林の中の道型は少々怪しい。ここは弓張りと呼ばれる地点で、『南牧村誌』によると「余地峠を越えた信玄が、将兵を緊張させるために馬上で弓の音をさせた」という伝説が残る。
余地峠に向かい、未舗装の林道を辿って山腹を斜めに登る。途中に道標があり、自然公園へ周回する遊歩道があるようだ。やがて道端に「馬頭尊」の文字が深く刻まれた石碑を見つける。このすぐ先で左に分岐する山道が余地峠への道なので、通り過ぎないように注意(実はうっかり直進して引き返した)。
山道はまたすぐに轍の残る林道に合流し、急な山腹をトラバースしつつ高度を上げる。右には木立を透かして綺麗な三角錐の小唐沢山が見える。あれも隣の霊山峰(れいぜんぼう)と共にちょっと興味を引かれるピークである。
程なく緩やかな稜線上の余地峠に着く。信州側はカラマツ林の緩斜面となって峠道が降って行く。路傍に三基の馬頭観世音の石碑と二基の地蔵菩薩像が建ち、古い峠の風情がある。石碑の一つには大正三年と刻まれている。『南牧村誌』によると、戦後、田口峠が車で通れるようになるまでは余地道が多く使われ、昭和初期には一日に二頭ぐらいの馬が通ったという。
峠から県境稜線を南に辿る。「日影山国有林」の壊れかけた看板の脇から作業道に入るが、すぐに道はなくなって、下生えのない雑木林の広い尾根を登る。信州(右)側はカラマツの植林帯の緩やかな斜面で、作業道がジグザグに通じている。尾根が明確になり、丈の低い笹原を踏んで、左の雑木林と右のカラマツ林の境を緩くアップダウンする。上州側は急斜面、信州側は緩斜面で、非対称な稜線となっている。
程なく登り着いた1400m圏の小ピークは、ネット上のいくつかの山行記録によると、日影山と呼ばれている。さらに稜線を辿って、次の1410m標高点のピークとの間の鞍部に向かって下る。この下りで枯れた篠竹の藪が現れ始め、藪の間に細く続く踏み跡(獣道?)を拾って歩く。
鞍部から登り返すと左側は急峻な斜面となって、岩場も現れる。篠竹の急坂を登ると、左斜面に突き出た展望の良い岩場を見出だす。ここから、鮮やかな新緑と濃い緑がパッチワークのように覆う南牧谷が一望できる。眼下には、ヤッホーと呼べば届きそうな間合いで南牧村自然公園の建物の屋根を俯瞰し、南牧谷の左側には経塚山、立岩、毛無山、遠くに鹿岳、四ッ又山、右側には大岩から二子岩、ククリ岩を望む。今日一番の展望だ。
展望岩場から急坂を登って1410m標高点の頂上に着く。短い笹原に覆われた頂上は小広く、まだ冬枯れの雑木林に明るく日差しが注ぐ。ここから矢沢峠への下りは背丈程の篠竹藪に覆われ、藪の間に辛うじて続く狭い踏み跡を辿る。篠竹は枯れているとは言え、邪魔で埃っぽくて鬱陶しい。林を透かして行く手に広古屋山がゆったりと盛り上がっているのが見える。
傾斜が緩まり、枯れ篠竹藪の中にぽっかりと開いた平地に出ると矢沢峠だ。ネット上の山行記録で良く見た「矢沢峠 標高1330M さくまち」の大きな木製の道標が設置されている。信州側は緩斜面で峠道があるようだが、上州側は急峻で獣道っぽい微かな踏み跡があるだけである。
矢沢峠から広く平坦な稜線を進む。疎らな雑木林に丈の低い笹原が下生えとなり、気分良く歩けるが、あちこちに枯れた篠竹藪が見えるのは目障り。笹原に侵略を開始した篠竹が、その途中で枯死して侵略が止まったという様子が窺える。
広古屋山への登りに取り付くと、冬枯れの雑木林と篠竹藪に覆われた殺風景な急斜面となる。藪の薄いところを拾って急登すると、平坦な頂上稜線の東端に登り着く。
頂上稜線はここから県境を外れて南西に延び、信州側に少し入ったところで広古屋山の頂上を僅かに持ち上げる。頂上に向かう前に大上峠への下り口を確認しておこう。稜線を少し辿ると稜線の幅が広がり、左手の木の梢に赤青のテープがひらひらしている。ここが下り口のようだ。
さらに稜線を緩く登って、三角点標石のある広古屋山頂上に着く。頂上は小広い平地となっているが、雑木林に覆われて展望に乏しく、木の間越しに白い八ヶ岳が見えるくらいである。文字が掠れた山名標識が三つあり、いずれも「広小屋山」表記となっている。信州に入ったせいか風が冷たく、天気も曇って日が翳り寒々しい。数本のコブシの木が白い花を咲かせているのだけが彩りだ。まだ10時半で昼食には早いので、少しだけ休憩して頂上を辞す。
先ほど確認した下り口に戻り、下降を開始。ザレからすぐに急斜面の篠竹藪の下りとなる。この辺りの藪は酷い。踏み跡が続いているから良いものの、それがもしなければ家に帰りたくなるレベルだ。足元も柔らかくて崩れやすく、歩きにくい。踏み跡はところどころで不明瞭となるが、道に沿ってオレンジ蛍光色のプラスチック製の杭が点々と打たれており、これが良い目印となる。
1308m標高点との鞍部の辺りは、左側がところどころ崩壊した急斜面の痩せ尾根となる。急坂を登って、1308m標高点の緩やかなピークに着く。
群馬300山には「大上峠から1308m標高点まで笹藪のため1時間40分もかかり、この先に行くことは断念した」との記述がある。24年前の1993年のことである。2009年のウェブ上の山行記録で、青々とした篠竹の写真を見たことがあり、篠竹が枯死したのはその後のことだろう。踏み跡がいつ頃通じたのかは知らないが、お蔭で今日は県境稜線を楽に歩けている。
1308m標高点を越えても篠竹藪の中に踏み跡が続く。「図根点」や「国土調査」と書かれたプラスチック製の標識杭が多数打たれ、「地籍調査」と印刷されたピンクの新しいテープが立木に貼られており、そのためか踏み跡も明瞭だ。
稜線が広がって緩やかに下ると、高い樹林に疎らに生える平地に着く。ここが大上峠の自然樹木園のようだ。樹木園といっても、木に名札が付いているだけで、歩道やベンチの類は全くない。ウラジロモミ、ウリハダカエデ、ナツツバキ、ホオノキ、サラサドウダン、クリなどの名札に混じって、スズタケの名札も立っており、以前は篠竹藪が目立つ存在だったのだろう。この辺りでは、現在は枯れ篠竹すらも見当たらない。
平地を進むと舗装道が通る大上峠に出る。峠の道端に「林道大上峠開通記念樹」と刻まれた石碑と小さな祠があり、祠の中に地蔵様の風化した石像が祀られている。これは『群馬の峠』の大上峠の項に写真が掲載されている地蔵様に相違なく、見ることができて喜ぶ。
時刻もお昼となったので、樹木園の平地の適当な倒木に腰掛けて、ビールテイスト飲料、レトルトパックの鯖味噌煮、カップ麺の天ぷらそばで昼食とする。峠を越える車両は少なく、昼食の間に2、3台というところだった。
昼食後、林道大上線を下り、途中でのこぎり岩に立ち寄ってから、南牧村自然公園に戻ることにする。林道は、新緑が芽吹く雑木林に覆われた山腹をトラバースする。路上からのこぎり岩を見渡せる場所があると期待していたのだが、道端の樹林が成長して、なかなかスッキリと見えない。林道がのこぎり岩の尾根を横切る所の切り通しの直前で、ようやく木の梢越しにのこぎり岩が撮影できる。
のこぎり岩へは、切り通しを抜けて右に分岐する作業道に入る。山腹を巻いて鞍部に出たところで、作業道から分かれて正面の杉林の斜面を登る。かなりの急斜面を息を切らせて登ると、痩せ尾根の上に出る。最高点がミホガハラの頂上で、立木に「みほがはら」と書かれた古いGさん山名標が付けられている。
さらに痩せ尾根を辿る。左右とも急斜面で、左の樹林の切れ間から兜岩山や経塚山、立岩が眺められる。断面が∩字形で松などが生えた岩尾根となり、白っぽく砕けた岩を踏んで∩字の頂点を辿ると、右側が急傾斜の岩場となる。覗き込んだ岩場の先は切れ落ちて、遥か下に新緑に覆われた谷が見える。おっそろしい高度感だ。右に寄って躓いたりしないよう、慎重に歩く。
痩せ尾根を進むに連れて眼下の谷はますます低く、ますます高度感が増す。谷の向こうには、県境稜線がなだらかに窪んだ大上峠が眺められる。やがて尾根が急に降り始めて踏み跡も怪しくなった。この辺りで引き返そう。
引き返す途中、のこぎり岩の反対側の斜面にシャクナゲの鮮やかな紅色の蕾を見つける。もうナゲさんが咲き始める時期なんだなあ。林道に戻れば、あとは車道を歩いて南牧村自然公園に向かうだけだ。
南牧村自然公園の駐車場に着くと、他の車は既に帰った後でガランとしている。管理棟で日帰り入浴できるか聞いてみたが、営業していないとのことだった。枯れ篠竹藪の埃を落としてサッパリしたかったのだが、残念。ついでに、裏手に聳える1410m標高点に山名がないか尋ねたが、わからないとのことだった。呼称があるとしたら信州側かも知れない。帰りの途中でいつものお土産を買って、帰桐した。