川化山〜かまど倉
かまど倉は、以前から、その筋の方々の山行記録を拝読して興味を持っていたのだが、険しくて一筋縄では行かない山という印象があり、出かけるのが延び延びになっていた山だ。もう一つ、延び延びになっていた理由は、かまど倉は川化(かわばけ)山、飛付き不動と繋いで歩きたいと思っていたのだが、飛付き不動がどこにあるのか、さっぱり情報がなかったことだ。そもそも飛付き不動を知ったのは、宇都宮ハイキングクラブ編『栃木の山100』(1991年刊行)の「かまど倉」のガイド記事で、次のように書かれている。
山頂直下の大岩壁に大きなカマド状の岩屋があることから、かまど倉と呼ばれている。東側の川化山、飛付き不動と合わせ川化三山と称されている。ヤブが深く登山道も踏跡程度だが、山頂に立てた気分は最高である。
三山と聞けば、これは三山駆けをせねばなりますまい(^^)。最近、NDLで文献を拾い読みしていて、『上都賀郡誌』p.379に「川化山」に関する以下の記事を見つけた。
板荷駅の西方に岩山が突ごつしているものがある。風景絶けいであり連峰天にそびえている。これはかつて勝道上人が日光開山に先だってここに諸仏を奉置し、民心を済度した所であると言う。 開基は以上のようなことであるが、当山の規模がやや減少の感があったので、彼方の雲表にそびえている日光連山を目指して行ったとのこと。当山には大岩穴がありこれを大日洞と言い、中に神仏様の尊像が自然岩に巧みに彫刻されている。 又、今やくずれんとする絶壁に大不動明王の彫刻がある。飛び付き不動と称する。狭き岩間をはるか山底を流れる渓流のささやきを聞きながら進むと、突如広々とした原に万花美を競う所がある。これを弥陀が原と言い幾多の地蔵尊が安置されている。 更に岸壁をよじ登れば剣ヶ峰に達する。ここより更に西に行くこと千メートル釜戸倉山の東ろくに達すれば諸病に効霊が高い鉱泉の出る所がある。かつて近郷在住のここに入湯するもの数が多かったと言う。
板荷(いたが)駅の西方の岩山と言えば、東武日光線の車窓からそれらしい風景を眺めた記憶がある。地形図を見ると間隔が密な等高線に囲まれた420m圏峰があり、もしかしてこれが飛付き不動のある岩山ではなかろうか。あとは現地に行って、この記事を手掛かりに飛付き不動を探してみるしかない。という訳で、この週末に出かけてきました。
桐生を車で出発。鹿沼ICで高速を降り、鹿沼市街を掠めて、県道板荷玉田線を北上する。行く手の日光連山は発達した雪雲に覆われて、白く化粧直しをしている。今日は寒気が入って寒いとの予報。先週末は暑いくらいだったのに、季節が逆戻りだ。服装も冬用に戻している。幸い、日光連山の手前は良く晴れて、古賀志山や周辺の低山には雪は全くない。
まず、板荷駅へ。駅前から西方に420m圏峰を仰ぐ。頂上直下に岩壁があり、直登はロッククライミングの範疇なので無理だ。右にも小岩峰があって気になるが、その背後の稜線は採石場として開発されて切り崩され、押し出された土石で谷が埋まっている。この惨状では、小岩峰は探索範囲から外さざるを得ない。
駅前に商店があり、買い物ついでに飛付き不動について聞こうと思ったら、シャッターが閉まっていた。残念。仕方なく前の自販機で温かいミルクセーキを買って飲み、暖まる。
車で少し移動。県道を戻り、「川化山 かまど倉 →」の新しい道標で右折。踏切を横断し、黒川を川化橋で渡って、橋の袂のスペースに車を置く。橋から黒川の上流を眺めると、左の岸に∩状ピークが聳える。あれが目指す420m圏峰で、その左には川化山も見えている。
川化の集落を抜け、林道が二手に分かれる地点で右の大川化線に入る。左は川化線で、かまど倉への一般ルートとなっている。帰りは一般ルートで戻って来る予定である。
山裾と畑地の間の林道を進む。途中に左へ山道が分かれ、入口に「蓑笠稲荷」の標識と次の説明書きがある。曰く、天明の大飢饉で、農民が飢えに苦しんだ時、代官蓑笠之助は、施し米を村人に分け与えました。生き延びた人々は、彼に感謝し神社に祀りました、とのこと。山道を辿ると、すぐに一対の石灯籠と寂れた社があり、お参りする。
後日調べると、蓑笠之助は江戸幕府の幕臣で、関東の農政に携わったとのこと。この地との関わりは不明。蓑笠稲荷は「いたが名所旧跡マップ」にも掲載されている。
神社から林道に戻って、なおも進む。作業道を何本か左へ分ける。黒川が山裾に迫り、林道からも水面が見えてくる。やがて、林道終点。この先は、杉林の中へけもの道らしき怪しげな踏み跡が通じているだけだ。
林道終点から引き返して、水量の少ない沢に入る。沢沿いに道型らしきものがあり、もしかして昔の山道の痕跡か……
……と思ったら、すぐに沢を横切る作業道に突き当たる。作業道は沢に沿って続いているので素直に辿る。倒木に塞がれたり、路盤が流出したりで荒れ放題だが、断続的に簡易舗装が残っている。何もない沢を遡行するよりかはずっと楽で、行程が捗る。
水量が減じ、谷が不明瞭に三股に分かれる地点に着く。この先、作業道は痕跡も消える。周囲の山肌には岩壁が露出し、右側には木立を透かして420m圏峰が頭上に垣間見える。岩壁に何か石造物がないか、基部に近寄って探してみるが、それらしい物は見当たらない。
右股に入ると杉の枝葉と倒木が谷を埋め、歩き難い。しかし、頭上には木の間に稜線が見えてきて、なんとか詰め上がれそうだ。最後は土砂の押し出しの急斜面をずり落ちながら直登して、稜線の上に出た。
稜線の反対側斜面は広大な採石場で、稜線上まで削平されている。今日は休日のためか、採石場が稼働している気配は全くない。開けた採石場の向こうには鶏鳴山や石尊山、その向こうにはだいぶ雪雲がとれた日光連山や高原山が眺められる。
まず、右手の420m圏峰に向かう。すぐに採石場を抜けて、樹林に覆われた稜線に入ると、一体の石仏がある。銘はないが、風化して古そうなものだ。これが“弥陀が原”に安置された地蔵尊の一つだろうか。側の木立には「地蔵くい」と書かれた赤テープがあり、こんな所を訪れる好事家が居られることに驚く。
さらに稜線を辿ると、短い急坂を登ってあっさり420m圏峰に着く。人工物は何もない。樹林に囲まれて展望もなく、新緑を透かして黒川沿いの畑地が見おろせる程度だ。
頂上から南西へ落ちる尾根は、傾斜はきついが、危険なく下降できそうだ。少し下ると、左側に大きな岩壁が現れる。この絶壁のどこかに飛付き不動があるのだろうか。転落しないように気を付けつつ、岩壁を眺めながら、さらに尾根を下る。谷底の渓流に近づくと岩壁の上に出る。この岩壁は沢沿いに遡ってきたときに見上げたところだ。右側の杉林の斜面は比較的傾斜が緩いので、谷底からこの尾根に直接取り付くこともできそうだ。
岩壁に何かないか、良く見ながら尾根を登り返す。やはり、石仏の類は見当たらない。岩を彫刻するにも足場が確保できないといけないから、岩壁のど真ん中にあるということは考え難いが、ちょっとドローンが欲しくなった。何も見つからず、420m圏峰の頂上に戻る。沢を稜線まで詰めるより、こちらの尾根を登る方が余程楽だった。
結局、飛付き不動の場所は解明できず、ガックリ。まあ、勝道上人の日光開山(男体山登頂)は782年の大昔なので、痕跡が残らなくても不思議はないし、採石場の開発で消えた可能性もある。気になる場所が探索できて好奇心は満たされたから、まあ良しとしよう。
次は川化山に向かう。稜線を戻って、採石場の上端を横断し、再び樹林に覆われた稜線に入る。稜線上には明瞭な道型が続いているが、すぐ先に通行止の鎖が張り渡され、下に「立入禁止」のプレートが落ちている。あちゃー、採石場内はやはり立入禁止でしたか。知らずに通過したということでご容赦を🙇。なので、ここの通過はお勧めしない。
川化山へは岩場を交え、檜林に覆われた痩せ尾根が続く。この足尾山地らしい雰囲気は久々に感じる。一箇所、急な岩稜が現れ、右斜面をトラバースして通過する。足元は切れ落ちて、なかなか緊張する。次の岩場も右から巻き、急斜面を登って稜線に復帰する。
登り着いた小さな岩場は南面の眺めが開ける。山麓の黒川沿いの集落や畑地を俯瞰し、駐車した川化橋も見え、対岸の次石山の連山や、鹿沼市街も眺められる。さらに露岩の多い尾根を小さく上下して、川化山の頂上に着く。
頂上は狭い平地で、樹林に囲まれて展望はほとんどない。平地の真ん中に三角点標石があるが、地上に出ている部分の側面に「基」「032」と刻まれているのは珍しい気がする。栃木の山で良く見かける「栃木の山紀行」さんの山名標識は、これも久し振りに見た。飛付き不動の探索に時間がかかって、既に正午を回っている。ここで昼食休憩とし、ドライゼロで喉を潤して、鯖味噌煮とシーフードヌードルを食べる。
昼食を終えて、次はかまど倉に向かう。頂上から南へ痩せ尾根を下る。どんどん下るので、あれっと思って地図を確認したら、主稜線から外れていた。植林帯の斜面をトラバースして主稜線に戻り、事なきを得る。
すぐに現れる岩場は左から巻く。あとは主稜線上に良い山道が通じている。植林にところどころ新緑の雑木林が混じる尾根をゆるゆると辿ると、川化山〜かまど倉間の最低鞍部に着く。鞍部には岩を削ったような壁があり、その脇から急坂を登る。右(北)側斜面が伐採されて、鶏鳴山と石尊山の眺めが良い。その手前に羽賀場山〜マルボ山を繋ぐ稜線も眺められて、あちらも歩いてみたい気がする。
急坂を登り切ると緩い尾根道の登りとなる。この辺りから、数組のハイカーさんとすれ違う。程なく尾根上に送電鉄塔が見えてくる。送電線の下の伐採地は陽当たりが良く、送電鉄塔はススキやスズタケの密藪に囲まれているが、山道は綺麗に切り開かれている。伐採地で川化林道へジグザグ下る山道を左に分ける。そちらの方向には次石山や古賀志山が眺められる。
送電鉄塔のすぐ先も、右(北)側に羽賀場山や鶏鳴山、その奥に男体山から女峰山にかけての日光連山を遠望する。植林帯に入り、展望のない尾根道を登る。木の根が絡み合った急坂を登り、露岩を交えた尾根道を小さく上下して進む。トラロープが張られた急斜面を登ると、かまど倉の台地状の頂上の北の肩に着く。足元が切れ落ちた岩場があり、ここからは南面の大展望が開ける。次石山や古賀志山、多気山を眺め、関東平野が遠望できる。
かまど倉の頂上は目と鼻の先だ。三角点標石や山名標識がある。こちらは樹林に囲まれて、展望は隙間から二股山が見える程度。「←松坂トンネル」の古い道標があり、そちらの北西に延びる尾根上にもルートがあるらしい。
頂上の直前にも「洞穴→ 引田(ひきだ)→」の道標がある。この洞穴が、冒頭のガイド記事にあった「カマド状の岩屋」だ。山名の由来でもあるし、これは見に行くしかないでしょう。「←かまどの洞窟」の道標もあり、急斜面にトラロープが張られて、ルートが整備されている。しかし、トラロープが途切れると道が少し分かり難い。杉林の斜面の微かな踏み跡を拾って下る。
頂上からだいぶ下って来て、右手を見上げると大岩壁が聳えている。「引田(ひきだ)→ 尾根コース→」の道標で左に道を分け、すぐ先で下遠部への道を左に分けて、洞窟へは右へ。右手の大岩壁を回り込むように、基部に沿って進む。
大岩壁を巻き終わると倒木が折り重なる斜面の下に出て、頭上の樹林の間に陽が当たって白く輝く絶壁を仰ぎ見る。絶壁を目指し、倒木を縫って斜面を登ると再び「←引田(ひきだ)」の道標があり、左に下る道を分ける。
洞窟へはさらに斜面を直登する。足元が崩れ易く、トラロープが張られていて助かる。そもそも、頂上から道標やトラロープが設置されていなければ、ここまで辿り着くのはかなり難しく、エキスパート向けになるだろう。ルートを整備頂いて、大感謝である。
岩壁の基部に着くと、ぽっかりと巨大な洞窟が口を開けている。ネット上の山行記録の写真で見てはいたが、岩壁、洞窟とも実際に見るとスケール感、迫力が全く違い、巨大で圧倒される。近寄って洞窟の天井付近を見上げると、岩壁には大小の亀裂が走り、一部でも崩落したら高確率でお陀仏である。気休め程度に距離を取って、カメラを向ける。
洞窟の前の斜面からは南麓の引田集落の辺りを俯瞰し、その向こうに二股山を望む。岩壁と洞窟の全景の写真を撮るには、距離を取らないとフレームに収まらない。いやー、しかしこれは凄い洞窟、岩壁で、絶景である。非常にお勧め。
洞窟を探勝したのち、頂上に戻る。途中、トラロープが途切れている辺りを登っていて、あらぬ方向から声を掛けられる。女性2人組のハイカーさんで、洞窟へ行こうとしているとのこと。洞窟の方向を教えて差し上げる。引田コースを下ろうとしたハイカーさんも迷って戻って来ていたし、ルートが整備されているとは言え、かまど倉は迷い易いところも残っているので要注意。
頂上から洞窟へは、往復約40分かかった。もう一度、頂上からの展望を楽しんだのち、往路を送電鉄塔まで戻って、そこから一般コースで下山する。
送電鉄塔から山腹を大きくジグザグを切って下り、伐採地から植林帯に入る。程なく、林道川化支線に下り着く。この地点には送電線巡視路の黄色標柱と「かまど倉→」の道標が設置されている。以降、林道の分岐点には同様の道標がある。下りの際はとにかく下るだけだが、登りの際にはこれらの道標がガイドとして役に立つ。林道は、一部の区間で原型を留めない程に流出しているが、脇にはっきりした道型が付いている。
林道川化線に合流。さらに林道を下ると林間に墓地と工事小屋がある。渓流の護岸工事の現場を過ぎ、防獣ネットを脇から通過すると、往路で通った林道大川化線の分岐に着く。あとは川化集落を抜けて、駐車地点の川化橋の袂まで僅かな距離である。
飛付き不動は残念ながら見つからなかったが、かまど倉の洞窟を見たら残念な気持ちは吹っ飛んだ。勝道上人ももし見たら、一驚されるに違いない😀。川化山とかまど倉は、以前の印象とは異なって、一般コースには道標やトラロープが良く整備されており、歩き易かった。久し振りに足尾山地らしい痩せ尾根や岩場のある山歩きも堪能できた。帰りに、これも3年振りとなる鹿沼♨華ゆらりに日帰り入浴で立ち寄ったのち、桐生への帰途についた。
参考ガイド:栃木の山150(随想社、2013年)