吾嬬山〜薬師岳〜四阿山
最近、吾妻周辺の山歩きに度々出かけている。その行き帰りで中之条市街を通り掛かると、西にぽっこり突き出て並び立つ吾嬬山(かづまやま)と薬師岳に毎度目を引かれる。
吾嬬山は南面から往復して登ったことがある(山行記録)が、薬師岳は登り残している。吾嬬山の山頂から北に少し下った山中には吾嬬神社奥の宮の石祠があるそうで、これにはとても興味を惹かれるから、吾嬬山は再訪したい。また、『吾妻の里山』によると、薬師岳の東の737m標高点峰は、地元では四阿山(あずまやさん)と呼ばれているとのこと。
となると、じゃあ、この三山を縦走してみようか、と自然に思い付く。薬師岳〜四阿山の稜線を辿った山行記録はネット上にも見当たらないから、未知の楽しみも大きい。
吾嬬神社の里宮は、三山の北麓を流れる大竹川が四万川に合流する辺りにある。里宮から奥の宮へは、現在では7割方車道を辿ることになるが、古の参拝路を偲んで歩くのも悪くない。という訳で、吾嬬神社里宮を起点として周回する計画を立てて、出かけてきました。
桐生を車で未明に発ち、R353を走って中之条へ。北には灰色の雲が広がるものの、吾嬬山の上空には青空が覗く。立派な斜張橋(上妻橋)で四万川を渡った先に吾嬬神社がある。神社の隣の社務所前に駐車場があるが、その奥に廃校の校庭の広いスペースがあるので、そちらに車を置かせて貰う。閉校記念碑によると、ここは1991年に閉校された中之条町立第二小学校第一分校の跡地とのこと(後日調べると、第二小学校は2005年に沢田小学校に統合されて廃校、沢田小学校も2015年に中之条小学校に統合されて廃校、現在に至る)。
まず、吾嬬神社に参拝しよう。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)とその夫人上妻媛命(かづまひめのみこと)とのこと。夫人の名は、橋の名にもあった。なお、これも後日調べだが、日本武尊の夫人は上妻媛命だけではなく、弟橘媛(おとたちばなひめ)をはじめ、もっと大勢いたらしい(^^;)
境内には、かつての極彩色が褪せた感じの色合いの随身門や拝殿が建つ。また、摩多利(またり)神社という、何やら寛げそうな名前の神社も合祀されている。
神社からスタートし、開けた谷間からぽっこりと丸みを帯びた吾嬬山の頂を仰ぎつつ、大竹川に沿って車道を緩く登る。大竹川は意外と大きな川で、ずっと護岸・河床整備がされている。途中に大竹不動尊と書かれた古い標識が建ち、護岸の中段に石灯籠や不動尊像、石祠、東屋がある。
緩斜面の区画整備された農地に出ると、吾嬬山に加えて、薬師山と四阿山も眺められる。途中の道端に石柱道標があり「左藥師嶽経テ岩下大村ニ通ズ」「右大竹経テ岩?ニ通ズ」(?は読めない)と刻まれている。岩下、大村は薬師岳南麓でJR岩島駅付近の集落だ。左に分岐する道はすぐに農地に突き当たって、道型は完全に途切れている。
車道は大竹橋で左岸に渡り、しばらく大竹川沿いに登ったのち、大倉見橋の手前で右に切り返す。小さな尾根を回り込んで緩く登ると、やがて広々とした開墾地に出て、だいぶ近づいた吾嬬山を仰ぐ。戦後開拓されたという吾嬬集落を通り抜け、「中之条園芸→」の看板のあるY字路を左に入る。
最奥の民家を過ぎて振り返ると、開墾地の向こうに嵩山と蟻川岳が小さいながらもポッコリと目立つ。吾嬬山の山懐に入り、伐採地から山頂を仰ぐ。未舗装の林道となり、程なく駐車スペースのあるY字路に着く。「蛇野(大竹)林道起点」の標識と「吾嬬山へ→」の道標が立つ。左の道はすぐ先にゲートあり。道標に従って、右の道に入る。
右の林道を進むと行手に送電鉄塔が見え、程なく「吾嬬山登り口」の道標に着く。付近に駐車余地はないので、車で来た場合は先程のY字路に駐車するのが吉だろう。
山道に入り、若い杉植林帯の中を登る。道型は広くて良く踏まれている。高い杉林に入ってジグザグに登る。ふと気が付くと、少し離れた斜面にカモシカが居て、正対してこちらを凝視している。カモシカは好奇心が強いと言い、確かにそんな気配が伝わって来る。
尾根上に幅広く明確な道型が続くが、標高960m辺りで広い緩斜面の檜林に入ると、途端に道型が拡散して不明瞭となる。ここは林業の白い標柱と朽ちた木株の間を通ってすぐに左折し、林の中の微かな道型を辿る。なお、爺イ先生の記事によると、この近くに「池の平」と呼ばれる沼地があるそうだが、訪ね損ねた。
すぐに薄暗い檜林を抜けて明るい雑木林に入り、落ち葉が積もった緩斜面を登って行く。木立を透かして、吾嬬山の山頂を急角度で間近に見上げる。
再び檜林に入ると、磐座(いわくら)の上に石祠がある。これが吾嬬神社奥の宮だ。流造の大きな石祠で、向拝には滑らかな石の玉が置かれている。背後に吾嬬山の急峻な頂を控え、神さびた雰囲気が強く感じられる場所だ。
奥の宮から雑木林に出て、かなりの急斜面を左上に向かって登る。やがて道標があり、林道峠へ下る道を左に分ける。なお、林道峠は『群馬300山』等で用いられている通称で、道標にはそちらを差して単に「峠の林道へ」と書かれている。
さらに急斜面を吾嬬山南面に回り込んで小さくジグザグに登る。南麓の岩下からの登山道を合わせてひと登りすると、吾嬬山の頂上に着く。誰も居なくて、静かな頂だ。
山頂には三角点標石と見覚えのある山名標識に加えて、中之条町が建てた山名標柱がある。展望は北東に向かって開け、大竹集落や中之条市街を俯瞰し、これから辿る薬師岳と四阿山が眺められる。四阿山は小山だがポッコリ盛り上がって、なかなか目立つ。
「峠の林道へ」の道標まで戻り、林道峠に向かって尾根を急降下する。やがて傾斜が緩み、小さな上下を経て送電鉄塔(西群馬幹線)に着く。さらに尾根を直進し、行手に薬師岳の山影を見ながら下る。尾根の右を巻いて来た送電線巡視路と合流すると、プラ階段が現れる。左に折れて尾根の右斜面をトラバースすると、未舗装の林道に下り着く。ここが通称、林道峠で、「←薬師岳 吾嬬山→」の道標がある。
薬師岳へは、林道を横断して向かいの枯れススキに突入する。すぐに作業道が現れ、尾根上の山道に続く。冬枯れで明るい雑木林や赤松に覆われた尾根を辿り、いくつか小さなピークを越えたり巻いたりする。
平坦な稜線に登り着き、少し稜線を辿ると薬師岳の頂上で、小さな岩場に石灯籠と石祠がある。この石祠は、前面の菱形格子の透かし窓が幾何学模様となって、なかなか見栄えが良い。石祠の裏手は小平地となり、三角点標石と山名板がある。木立に囲まれて展望には乏しいが、明るくて落ち着ける頂だ。岩場で風を避けて日溜りに腰を下ろし、缶ビール(小)に鯖味噌煮、カップ麺の鴨だしうどんの昼食を摂る。
一休みののち、四阿山に向かって北東に延びる尾根を下り始める。道型はないが、立木の間にそこはかとなく踏み跡があり、藪もなくて歩き易い。地形図の等高線の混み具合から予想していた通り、かなり急な下りだ。加えて、両側が切れ落ちた岩場混じりの痩せ尾根となっており、ここを歩くのはなかなか面白い。
松の生えた小さな瘤を越え、急な尾根をさらに下る。少し尾根幅が広がると、岩場による段差に突き当たる。ここは右に下って、段差を容易に巻くことができる。
あとは危なそうな個所はなく、傾斜の緩んだ尾根を下る。やがてポサポサとイバラの枯れ藪が現れるが、藪の区間は短い。すぐに薄暗い杉植林帯に入り、なだらかな尾根を辿る。
木立を透かして行手に四阿山を見ると、丈の低い笹原が現れる。下り着いた鞍部には明瞭な峠道が南北に通じている。北側の峠道は、大竹集落で見た石柱道標に通じるのかも。鞍部から短い急坂を登る。振り返ると薬師岳と吾嬬山がなかなか高く見える。
登り着いた台地状の稜線の最高点が四阿山頂だ。山名標識の類はない。頂上付近には、素人目にも曲輪や空堀と分かる遺構がある。『吾妻の里山』によると、高野平城と呼ばれる城の跡だそうだ。頂上の北面は急峻で、木立を透かして大竹川沿いの集落を俯瞰する。
最高点の少し先には、側面に「沢山」と刻まれた標石がある。何の標石かは不明(三角点標石でないことは確か)。そのすぐ先には石祠もある。石祠の側面には「四阿宮」「文政元年」とくっきり刻まれ、背面には「施主山田村…」(…は判読不明)の文字も見える。
これで三山の頂と石祠を全て訪ねた。こういう信仰の石造物のある里山歩きは、やはり楽しい。四阿山からは東へ尾根を下る。檜林と雑木林の境の尾根上に明瞭な踏み跡が通じている。送電鉄塔に出る最後数mだけが激藪で、イバラの刺が指に刺さってイテテ(+_+)
送電鉄塔で左に折れて送電線巡視路を下り、杉の幼樹の間を抜けると車道に出る。この地点には「↩︎西上武幹線10号に至る」という標柱が立つ。あとはのんびり車道を下る。途中、山田城址の入口を通り、約20分程で駐車地点の小学校跡に帰り着いた。
帰りは小野上温泉さちのゆ(旧称、小野上温泉センター)に立ち寄る。ここに来るのは小野子三山に登ったとき以来で、超久しぶりだ。大勢のお客さんで賑わっているが、ゆったりと湯船に浸かれる。また、JR吾妻線を利用した山歩きで、ここで宴会して帰るのもいいな。よく温まったのち、まだ明るい時間帯のうちに桐生への帰途についた。
参考URL:偏平足さんの「石仏578薬師岳(群馬)薬師堂」と「石仏579吾嬬山(群馬)石祠、摩多利神」の記事。