琴平山〜城山
この日曜はKさんらと足尾の山に登る計画があったのだが、前日夜の予報では天気が良くない。計画を中止し、代わりに近場でちょろちょろっと登れる所に出かけようという話になり、Kさんが前から興味を持っているという「城山のどこかにある見晴らしのいい大岩」に行ってみることになった。Kさんから借用中の桐生市史別巻を見ると「城山裏の琴平宮石祠と小谷戸(おがいど)の山神宮」と題した一節があり、次のような記述がある。
檜杓山城の二の丸から東に張り出しているのが北城(中略)。この北城の山骨がやせ尾根となって東南方に張り出し、その先端部はゆるい傾斜で山神社の裏山に続いている。このやせ尾根の中間部に塁々たる露岩のそそり立つ小峯が聳え、その岩上に琴平宮と東照宮の石祠が祀ってある。(中略)琴平宮背後の巨岩上に立つと、桐生川渓谷が一望に入り、細久保、小谷戸の谷は足元に展開する。
お目当ての物件は、この琴平宮の辺りにあるようである。やまの町桐生にも「梅田琴平山」の記事があり、琴平宮までの案内がある。これらをガイドにして、Kさん、Mさんと共に出かけて来ました。Kさんの記事はこちら。
梅田一丁目のコンビニに集合し、そこから車で城山林道に入って、集落を出抜けた所の使われていなさそうな作業道の入口に車を置く。あまり広くないので、手前の碧雲寺辺りに駐車した方が良かったかも。
駐車地点のすぐ先で、城山林道から斜め左に分岐して杉林の中を上がる石段がある。これを登ると、新しく注連縄が張られた古い鳥居があり、石段の脇には、庚申塔や二十三夜塔と刻まれた石碑が無造作に置かれている。
石段の上は小平地となり、石組みの上に大小5基の石祠が祀られている。これが山神社のようだ。中央の大きな石祠には「明治八…年十一月吉日」の銘がある。右手の斜面には十基近い数の庚申塔が横たわり、庚申信仰が盛んである or あったことが窺える。
山神社の裏手の平坦で低い尾根を奥に辿る。道型は全くなく、夜来の雨に濡れた小藪から雫が垂れて、濡れない様に歩くのに苦労する。左側の浅い谷に山道が通じており、そちらが正しいルートのようだ。
やがてその山道と合流して、尾根を横切る作業道に出る。尾根上に山道が続いており、その入口には楚欒山楽会がつけた琴平山への道標があまり色褪せずに残っている。ここから傾斜が増すが、杉林の中の道型は明瞭になって歩き易い。
ほどなく、尾根の途中の瘤のような露岩が現れ、石祠と石灯籠が建っている。石祠には朱が残り、屋根の正面には「金毘羅」と彫られている。また露岩の上には、雨に打たれて字が滲んだ楚欒山楽会の「琴平山 梅田一丁目」という山名標があり、ここが琴平宮のある琴平山頂上で間違いない。
しかし、高い杉林に囲まれて、展望は全くない。桐生川渓谷を一望するという巨岩はどこだろう。この近辺に他に岩場がありそうな様子はない。多分ここが件の巨岩で、桐生市史の記事の筆者が訪れた当時(1970年秋)は周囲の杉林がなく、露岩の上から展望が良かったのだろう。それにしても「塁々たる露岩のそそり立つ小峯が聳え」という表現は美文調なだけに、ちょっと大げさだったようだ。
山名標の裏手にもう一基の石祠があり、屋根の正面に「東照宮」と銘がある。やまの町桐生の記事によると、桐生地区の唯一の東照宮だそうだ。
桐生市史の記事には、山神社から琴平宮を経て尾根伝いに北城に通じる道は、長らく地域住民が用いた道であろう、と書いてある。相変わらずの曇り空だが、なんとか降らずに持ちそうなので、この尾根をさらに登って城山に向かってみる。
しばらく尾根上に良い山道が続くが、やがてイバラの急坂となり、作業道に這い上がる。この作業道を辿ると尾根の右と左に分岐する。ここは右に進んで、適当なところから尾根上に復帰する。この辺りには、昔の道の痕跡は全くない。
杉林の斜面を急登すると、尾根が階段状に切られた堀切や曲輪が現れる。これが北城の跡だ。さらに尾根を登って、台地状の柄杓山城・二の丸に着く。反対側斜面を巻いて通る遊歩道に合流し、城山頂上(本丸跡)に向かう。
桜の名所として有名で、その時期には花見客で大変賑わう城山頂上だが、今日はまだ桜には早い上に、曇って霧に覆われる天気なので、他には誰もいない。桜はポツポツ咲き出しているが、何となく花芽が少ない気がする。
お菓子を齧って休憩した後、遊歩道と城山林道を経由して駐車地点に戻る。途中の林道終点付近の桜は三分咲きというところ。城山の桜の見頃は1〜2週間後かな。
2時間弱の短い行程の山散歩で、お目当ての巨岩はちょっと当て外れの物だったが、石祠や石碑のある新しいルートで城山に登ることができて、まあ満足かな。私はこれで帰るが、KさんとMさんはもう一か所、近くを歩くとのことである。