駒形山・愛宕山・琴平山・石尊山
最近あちこちの地方で選定されているご当地100山に触発されて、桐生・みどり100山を選ぼうという非公式プロジェクトが某所で密かに進行している(^^)。今回はその選定作業の一環で、Mさん、Kさんと共に桐生市川内町内の里山をハシゴして歩いて来ました。Kさんの記事はこちら → 駒形山、愛宕山、琴平山、石尊山。
駒形山なる山が市内にあることは、『桐生市ことがら事典』の駒形山に関する記事を読んで初めて知った。その記事には、次の様に書かれている。
駒形地区集落の裏手、山麓に駒形堂があり、裏山の頂部に近い麓から直上150mの岩窟の中に子安観音・馬頭観音を祀ってある。石像の高さ50cm、岩窟の胎内くぐり岩が信仰となっている。祭日は旧盆の17日。眼下に仁田山の山峡が一望できる。(以下略)
石像が祀られた岩窟にとても興味を惹かれる。駒形山の位置はこの文から推し量れるが、岩窟の在処は詳らかでない。一般には全く知られていない山のため、駒形山に登ったというネット上の記録も皆無に近い。
先週の土曜日、半日の空き時間があるのを利用して、一人で駒形山に岩窟探しに出かけた。駒形集落で駒形堂と思しきお堂を見つけ、その裏手から駒形山に登って、大きな岩場とその割れ目に祀られた小さな石像を発見した。しかし、この石像は子安観音、馬頭観音とはどうも異なる。また、胎内くぐり岩も見つけられず、課題が残った。今回の再訪の目的は、この岩場の周辺を良く調べて、観音像と胎内くぐり岩を見つけることである。
駒形集落の中程の道幅が広いところに車を置いて歩き出す。今日はこの冬一番の寒波が到来し、時々風花が舞う天気。とても寒い。廃屋と化して久しい鳴神茶屋の下の手から裏山の山林に入り、短い石段を登るとお堂がある(これが駒形堂であることは、あとで地元の方に伺った話で確かめられた)。戸板の外れた窓から中を覗くと、二体の古びた木像が祀られているのが見える。
ここから駒形山に直登するのは、道のない急斜面で大変なので、鳴神山の駒形登山口まで行って、そこから左手の尾根に取り付いて登ることにする。こんなに寒い日にも、登山口には鳴神山に向かう女性ハイカーさんが二人。彼女らからの奇異の視線を集めつつ、鳴神山とは反対側の道のない急斜面に取り付く怪しい三人組であった(^^;)。植林の中のけもの道を辿って、ぐんぐん高度を上げる。
小藪のある植林帯から藪のない檜林に入って尾根を登ると、左斜面に大きな岩場が現れる。岩場の上の小平地からは、木の間越しだが、山田川沿いの集落を俯瞰することができる。岩場を一段下がった棚に一本の大きな檜が立ち、その向かいの岩の割れ目の中に高さ20cm程の石像が祀られている。神官のような姿だが、何の像かはわからない。台座の石にコンクリで固定されており、そう古くない時期に参拝者があったようだ。
棚の下は高い岩壁となっており、木の幹のように太い蔓が絡まり合ってぶら下がっている。この岩壁の下には何かありそうな気がする。急峻で危ないのでKさんを残し、Mさんと共に岩壁を巻いて下り、基部から岩壁を探ってみる。
落ち葉の積もった崖に近い急斜面を登ると、頭上に岩窟が現れた。岩窟の奥は岩場の上に抜けてポッカリと口が開いている。中には木が生えて邪魔だが、ひと一人優に通り抜けることができる。これが胎内くぐり岩に間違いない。抜け出た所は石像からすぐ近くなので、こちら側は近寄るのが容易。Kさんも胎内くぐり岩を覗き込むことができた。
その後、岩場の周辺で観音像を探すが、他には何も見つからなかった。しかし、胎内くぐり岩が発見できたのは大成果だ。一同、大満足。探索を終え、急な尾根をさらに登って、駒形山の頂上に向かう。
登り着いた頂上は広く緩やかで、東側は雑木林、西側は杉林に覆われている。明るい雰囲気でなかなか良い頂上だが、今日は北風が強くて寒い。Kさんからコーヒーを頂いて少し休んだ後、南西の尾根を下ることにする。
下り始めは杉林の急斜面で尾根の形がはっきりしないが、ひと下りすると明確な尾根となり、踏み跡が現れる。雑木林の尾根を下り、平久保集落と駒形集落の分岐点に降り着く。尾根の末端には立派な覆屋に納められた山神宮が祀られ、その先には数基の石像・石碑が建つ。その中の一つの青面金剛板碑は二鶏三猿を備え、「元禄七(1694)年甲戌月待 奉造庚申供養 七人」と銘が刻まれている。Mさんの話によると、この種の石造物で元禄年間のものは古くて珍しいだそうだ。
車に戻ってザックを降ろし、ついでに近くの民家に立ち寄って、駒形山について尋ねる。その方の話によると、駒形堂では今でも旧盆の祭日に寄り集まりがあるそうだ。
また、散歩中の地元の方にも折よく話を伺うことができ、我々が登った山は確かに駒形山と呼ばれている、胎内くぐり岩は行ったことはないが、聞いたことはある、あの辺りは山仕事での事故が多い、等の話を伺った。確かに岩窟とその周辺は険阻で危険な個所があるので、行ってみたいという奇特な方がもしいたら、十分に注意して頂きたい。
次のお山は、白瀧神社の裏手にある愛宕山だ。神社の駐車場に車を置き、駐車場の隅から山道に入る。杉林に覆われた浅い窪を歩くと道型が怪しくなり、いくらも進まないうちに消えてしまう。
青々としたアオキとシダが生い茂る急斜面を適当に上がると、予定の登路より左に寄ったようで、雷電山の頂上に登り着く。頂上には1基の石祠があり、「寛延二己巳(1749)年 施主名久村中 …月吉日」と刻まれている。
雷電山から南に尾根を辿ると、僅かな登りで愛宕山の頂上に着く。大きな石祠があり、「福聚山慈林寺八世 奉再建愛宕山大権現 明和四丁亥(1767)歳三月日」と刻まれている。普通の石祠とは格が違う立派なもので、一見の価値あり。後日ネットで調べると、慈林寺は明治期までは住職もおり、栄えていたとのことである(癒しの郷・名久木をめぐる)。
愛宕山から少し北に尾根を辿り、杉林の山腹を適当に下って駐車場に戻る。途中で大きなヌタ場を見た。白瀧神社の広場で風が多少避けられそうな陽だまりに腰を下ろして昼食にする。しかし、相変わらず寒くて、防寒具を着込む。こんな日は、高山にはとても行けない。のんびり里山歩きが一番である。
参考URL:やまの町桐生「愛宕山(白瀧神社)」。
昼食の後、川内町3丁目の三島神社に車で移動し、参道入口のスペースに駐車する。真新しい石鳥居を潜ると石段が続き、奥の社殿に導かれる。意外と大きな神社だ。社殿の背後にあるのが、これから登る琴平山である。
社殿の右手から雲祥寺の裏手の墓地を恐る恐る突っ切ると、右から上がって来る車道に出る。これを辿るとすぐに幅広い山道となり、琴平山を左からぐるっと巻くように緩く登って行く。なぜこんな立派な山道があるのか、不思議だ。
尾根に上がって少し戻ると、琴平山の頂上に着く。立ち木に簡素で古びた山名標がぶら下がっている他は何もなく、低い雑木林に囲まれて展望も得られない。
琴平山から北に続く稜線を辿ってみる。左側は篠竹に覆われた斜面で、山麓の川内町を見おろして展望が良い。山道は篠竹の藪を丁寧に切り開いて続いており、気持ちよく歩ける。ときおり分岐する山道も、どれも良く刈り払いされている。何のためにこんなに整備の手が入っているのか、ちょっと謎だ。
尾根を緩く登って行くと、篠竹に囲まれ、岩を背にして石祠が祀られている。「明和五(1768)年九月吉日 須永村…」と刻まれている。やまの町桐生では、この辺りの山を西久保山と仮称している。
さらに登ると刈り払い道は終点となり、その先は細い踏み跡が雑木林の尾根に通じている。振り返ると吾妻山や川内の町並み、渡良瀬川、遠くに八王子丘陵の眺めが開ける。低山だが、なかなかの好展望だ。
踏み跡を辿って345m峰に向かう。作業道の痕跡が錯綜する。だんだん笹藪が深くなり、最後は刺のある藪に引っ搔かれながら345m峰の頂上に着く。樹林に囲まれて展望のない冴えないピークで、ちょっと残念。この先も藪っぽいので、岩久保山に行くことは諦めて引き返す。
戻る途中、篠竹の中に分岐する踏み跡があったので辿ってみると、もう一つ別の石祠を見つけた。「文化六己巳(1809)年八月吉日 須永村 世話人 嘉兵衛 権蔵」と刻まれている。1基目も近くにあり、この辺りが本来の琴平山ということであれば、これらの石祠は琴平社ということになる。
往路を戻って、雲祥寺の墓地に出る。次に登る石尊山(別名、丸山)が、向こうの方にこじんまりと盛り上がっているのが眺められる。
車道に出て、須永橋バス停の先で左折、石尊山の登り口にある子聖(ねのひじり)大権現に向かう。子聖大権現の参道入口が判りにくくて少々遠回りするが、無事到着。石段を上がると、ポッカリと開けた山腹の平地に立派な石塔2基を従えて、子聖大権現の社殿が建つ。奥武蔵の子の権現と同じく足腰にご利益があるそうで、社殿の壁には数足の草鞋がぶら下がっている。
社殿右側から隈笹が生い茂った尾根に取り付いて登る。微かな道型があり、登る人があるのか、赤テープのマーキングが付けられている。隈笹の藪が薄くなると、不動明王像が現れる。火炎後背の文様がなかなか奇麗。Mさんによると、台座は亀を象ったものではないかとのこと。脇には金属板で作られた新しい剣が多数奉納され、今でも信仰を集めていることが窺える。
この先は雑木林となり、落ち葉の斜面を登って行くと、小天狗の石祠が現れる。その向かって右には大天狗、奥には石尊宮の石祠があり、いずれも「文政十二(1829)年己丑六月吉日」と刻まれている。頂上はこのすぐ上だ。藪と倒木が多く、展望は得られない。
往路を戻ろうとしたところ、頂上直下の南西斜面にも石祠があることに気づく。3.11大震災で倒れたのか、塔身や屋根が転落したものが多く、4基の石祠の内、倒壊していないのは1基のみだ。ことがら事典には、山頂には須永村と高津戸村の石宮が別々に祀ってある、と記されており、高津戸村の方の石祠が倒壊してしまったようだ。
往路で車に戻って、これにて今日の里山巡りは終了。いずれも小さな山だが、ハシゴして登るとなかなか歩き応えがある。そして、山岳信仰の跡を辿っていろいろな発見があり、充実した一日であった。
参考URL:やまの町桐生「川内琴平山」、「西久保山」、「川内丸山(子の権現)」。