二渡山〜持丸山
鳴神山脈の白萩山から南に派生する支尾根は、忍山(おしやま)川と高沢(こうざわ)川を東西に振り分けて、桐生市梅田町で桐生川に落ちる。この間、南北に約7kmの長さがある顕著な尾根でありながら、途中にこれといって目立つピークがないためか、これまであまり山歩きの対象になっていない。ネット上の山行記録としては、北半分を辿って岳山(白萩山)に登った「オッサンの山旅」や、南端の二渡山(ふたわたりやま)に登った「やまの町桐生」など数件があるのみで、桐生川流域の山の中で情報が希薄な空白地帯になっている。
「やまの町桐生」の膨大な索引のページを見ると、この尾根上には高芝山と持丸山という山名が記載されている。また、地形図には、この尾根を越えて鍛冶谷戸(かじかいど)と碁場小路、鍋足と忍山をそれぞれ結ぶ峠道が破線で描かれている。しかし、これらの山や峠を訪ねた記録は「やまの町桐生」にはない。尾根自体の名称も、高沢山脈や二渡山脈などが散見されるが、確立したものではない。
このように無い無い尽くしの地味なエリアだが、それが却ってどんな所なのか気にかかる。という訳で、桐生みどりご夫妻、代表幹事代行さんに同行頂いて、まず手始めに尾根の南半分を辿って来ました。
2台の車の片方を下山予定地の大茂(だいもん)の近くに置き、もう1台で登山口の護国神社参道入口に向かう。入口近くのスペースに車を置いて参道の石段を登り始めると、左に大きな庚申塔がある。脇の石灯籠には「寛政七乙卯年」(1795年)と刻まれている。
代行さんが持参した「桐生の石仏」のコピーによると、このあたりに石仏があるらしい。庚申塔の背後の藪をがさごそと搔き分けると林間に墓地があり、その一角に屋根が差し掛けられた三体の石仏があった。表面は風化が進んで文字の類いは見えないが、室町時代の薬師三尊とのこと。何気に古い物があるから、桐生の里山歩きは興味深い。なお、庚申塔の前の小径を左に行けば、藪漕ぎなしでお参りできる。
参道に戻って石段を登る。この石段はかなり長く、観光名所になりそうなくらい。桐生市内でも最長の部類ではなかろうか。緩く右に曲がりながら、粗い石組みの階段を登ると、狛犬が待ち受ける境内に着いて、簡素な社殿がある。社殿の裏手には、側面に浮き彫りが施されたり、屋根に装飾があったりとバラエティーに富んだ石祠が十数基並んでいて、最近、こういうものに興味津々のメンバー一同、時間をかけてじっくり拝見する。
社殿の左手から高園寺華心庵(春先にはヤマツツジが見事らしい)に下る山道を見送って、尾根を登る。この尾根は歩く人がいるのかも不明で、藪が酷いのではと心配していたが、踏み跡らしきものが通じていて、冬枯れのこの時期は藪も薄く快適に登れる。振り返ると、梅田の町並みに陽が差して光っている。
しばらく急坂を登ると雑木林に囲まれた平坦な尾根になり、このあたりが二渡山の頂上らしい。標識や山名標の類いは特にない。一番の高みで少し休憩して衣類を調節する。
二渡山の次のピークを越えると、緩い登り降りが続く尾根となる。このあたりは植林帯で日が当たるせいか、繁茂した灌木の小枝がちょっと煩わしい。ところどころ尾根を絡む道の痕跡もあるが、かつての林業の作業道だろう。
やがて、401m三角点へ続く尾根を右に分ける地点に着く。ピークらしいピークの乏しい今回の尾根歩きにおいては、三角点は貴重なランドマークなので、立ち寄ってみる。一旦、鞍部に下ると、ヒノキ?の大木がある。根本から太い幹が5本程分かれて高く伸びており、桐生にあっては巨木の部類に入ると思う。
三角点はこの直ぐ先にある。東面が広い伐採地で、高戸山方面の眺めが開けているので、腰を下ろして休憩する。展望が良い頂上なので、ここには山名が欲しいなあ、という話になる。点名は二渡だが、二渡山は既にあるので、山麓の集落の名に因んで上ノ原山という案が出た。如何なものでしょう。
(2012-07-08追記)401m三角点は作網(さかみ)山と称するそうです。
元の尾根に戻って、北に縦走を続ける。赤松の混じる雑木林の尾根を下ると、鍛冶谷戸と碁場小路を結ぶ峠に着く。尾根を越える踏み跡があるような気がするが、その先、麓まで続いているかどうかは不明だ。峠であることを示す物は特に何もない。
峠からの登りには途中に小さな岩場があるが、それを越えると淡々とした稜線が続く。桐生市基準点No.123のピークを過ぎると、ほぼ平坦な歩き易い尾根となる。雑木林に覆われて展望には恵まれないが、木の間から鳴神山や座間峠あたりの山々が眺められる。途中に高芝山があったはずだが、それらしいピークはなく、気づかずに通り過ぎたようだ。
(2012-07-08追記)高芝山は桐生市基準点No.123のピークを指すそうです。
登り始めて3時間近く経ち、そろそろお腹が減った頃、651m三角点についた。ここにはR.K氏の標高プレートがあるが、山名を示すものは例によって何もない。点名から木品山と呼んでもいいだろう。疎らに雑木が生えて、明るく雰囲気の良い頂きだ。こちら側から見る鳴神山は頂上がつんと尖って、やはりこの界隈の山では一番目立つ。缶ビールをお裾分け頂いて乾杯し、昼食を頰張る。私は例によってCOOPの鍋焼きうどん。
お腹もくちくなってまったりしていたが、日が陰って風が冷たくなった。出発するとしますか。しばらく平坦な尾根を進むと、行く手にちょっと高いピークが見えて来て、これが持丸山のようだ。持丸山の登りに取り付くと、なかなかの急登となる。
急坂を登り切って到着した持丸山の頂上は、ぼそぼそとした雑木に覆われて、今回の山歩きの最高地点なのに、ちょっと冴えない。展望も木立を透かして残馬山が見える程度。
頂上から緩い稜線を辿るが、そのまま稜線上を行くと西の高沢川に向かうので、途中で右に折れて下る。この下りは一直線でかなり急だ。小ピークを越えてもう一段下がると、鍋足〜大茂を結ぶ峠に降り着く。
この峠は、十数年前に鍋足から大茂へ越えたことがある。杉林の谷を詰め上がると、途中で道がわからなくなった。半ば強引に峠に登り、大茂側に下るとワサビ田があった。当時の峠の様子は記憶にないが、何もなかったことは覚えている。現在も何もなく、鍋足側に微かな踏み跡があるだけだ。両側から林道工事が進展し、鍋足側は杉林を透かして工事中の道路が見える。
この峠の名前も、また名前が付いていたのかも不明だが、「新しき山の旅」という古いガイド本では「影入峠」と呼ばれていたらしい。
今日は大茂側へ、落ち葉がふかふかに積もる斜面を下る。下り始めてわずかで山腹を横切る林道に出る。大茂にはさらに谷通しに下るのだが、そこは工事の土砂で埋め立てられていて、とても歩く気にはなれない。かつての峠道も、寂しいことだがこれで完全に消滅するだろう。仕方なく林道を辿って大茂に向かう。幸い、あまり遠回りにならずに大茂に着いた。
大茂には、かつて忍山山光館という鉱泉宿があったそうだが、営業を止めて久しく、廃屋が残っている。無住のはずだが、周囲にはゴミが散乱し、廃屋には犬が繫がれていて、何やら不穏な気配がある。気持ち良い場所ではないので、早々に立ち去る。少し下った所に古い庚申塔(「正徳?六丙年」と刻まれているので、1716年?)と2体の地蔵尊があるのが、ここが湯治客で賑わっていた往時を偲ばせる。渓谷を眺めながら車道を下り、車を置いた地点に到着した。
おまけ。出発点に置いた車に戻る途中で、中居橋の近くにあるという石仏を見に行った。お目当ての石仏は場所を変えたらしく見つからなかったが、近くの鷹林寺(ようりんじ)に行って、別の青面金剛像を見た。簡潔な線で構成された表情と、妙に小さな足が面白い。境内には北向観音と称する安産・子育ての観音菩薩を祀るお堂もあった。