秋葉山〜ゴシュウ山

天気:時々
メンバー:M,T
行程:駐車地点 8:45 …不動明王 8:55 …秋葉山(861m) 10:05〜10:25 …ゴシュウ山(950m) 11:00〜11:40 …鞍部 12:00 …岩窟 12:10〜12:20 …駐車地点 13:00
ルート地図 GPSのログを地理院地図に重ねて表示します。

この週末は遠出して雪山に出かけるつもりだったのだが、予報によると強い冬型の気圧配置となって寒さが厳しそうだ。雪山の計画は延期して、天気が良さそうな関東近辺で雪の無い山歩きを考える。オッサンハイトスさんの山行記録で、岩峰の天辺に御嶽三座神が祀られていると知って以来、興味を惹かれていた西上州の秋葉山を訪れるのに良い機会だ。という訳で、先達の記録をガイドにし、Mさんに同行頂いて登ってきました。

桐生を車で7時過ぎに発ち、高速を経由して下仁田へ。R254を走って、秋葉山山麓の馬居沢(まいさわ)集落に向かう。西牧(さいもく)川にかかる橋を渡ろうとしたら、橋梁老朽化のため?車両通行止。迂回して一つ上流の橋を渡る。行く手には秋葉山の岩峰が天を突いて聳えている。畏敬の念を覚える山容で、信仰の対象となるのも宜なるかな。馬居沢の西上州らしい山村の佇まいも好ましい。

集落を通り抜けて山間の林道に入り、舗装終点のすぐ先の駐車スペースに車を置く。周囲の山々は峨々とした岩壁を峙てて、西上州ワールドの真ん中といった感じの景観だ。


馬居沢の集落から仰ぐ秋葉山


舗装終点の駐車スペース

所々から秋葉山の岩峰を見上げつつ渓谷沿いの林道を歩くと、ブロック造りの小屋がある。厳重に鍵が掛かったごつい鉄扉から中を覗き込むと、不動明王が祀られている。2009年2月奉造の真新しい石像だが、新ハイ№614(2006年12月)掲載の岡田敏夫氏の記事でも言及されているから、古くから不動明王が祀られていた場所のようだ。

不動明王の正面で沢を渡り、対岸の急な山腹に付けられた山道を登る。赤テープの目印があり、道型も明確で、良く踏まれているようだ。すぐに道端に横たわる石碑を見出す。光網勝童子と刻まれており、三十六童子の一つだ。慶應、四番という文字も読み取れる。


不動明王


沢を渡って山腹を急登

杉林の急斜面を細かくジグザグを切って登ると、頭上にのしかかる様な岩峰が現われる。岩峰基部を右に回り込んで登ると衝立状に岩壁が続き、ここから幾つもの岩窟と石碑を順に探訪する。

最初の小さな岩窟の中には質多羅童子の文字碑がある。次の岩窟は落ち葉に埋もれて何もなし。その先の岩棚には召請光童子があり、「九番施主坂詰村金井仙…」と刻まれている。三十六童子が順番に祀られているが、番号が飛んでいるので、現在は見当たらないものもありそうだ。


最初の岩窟には質多羅童子


召請光童子

岩壁に沿ってザレた斜面を急登する。大きな岩窟があり、中に不思議童子の文字碑と普寛行者の石像が祀られている。普寛像は風雨に曝されていないため風化を免れ、朱塗りの色も微かに残っている。台座には「慶應元丑歳九月建立 開闢普寛者 施主神戸松一郎」と刻まれている(読み間違いがあるかも)。


大きな岩窟の中には…


…普寛行者と不思議童子がある

次に見つけた羅多羅童子には「十一番 施主羽田平…」、獅子光童子には「慶應二丙年 十四番 四月吉祥日」、法挟護童子には「十九番」と刻まれている。これら一連の石造物は、幕末の慶応年間(1865〜1867)に一斉に造立されたものであることがわかる。当時、御嶽信仰がどのように伝わって来て、このような石碑、石像を造ることになったのか。流行の新興宗教みたいなムーブメントがあったのかな。興味が湧く。


岩窟が連続する


獅子光童子


岩壁に沿って急登


法挟護童子

法挟護童子が最後の石碑となり、急斜面を登って岩壁の上の支尾根に出る。谷を挟んで向かいの物語山の眺めが良い。しばらく支尾根を絡んで登ると岩峰に突き当たる。赤テープに導かれて右の斜面をトラバースするが、このあたりは踏み跡が不明瞭だ。最後は急斜面を這い上がって、秋葉山頂上直下の鞍部に登り着く。左手(北)の岩峰へ灌木を搔き分けて踏み跡を登ると、秋葉山の頂上に出る。


岩峰を仰ぐ
この辺りから右へトラバース


鞍部から秋葉山頂上へ

頂上は狭く、枝振りの良い松の下に四体の石像が並ぶ。一つは柔和な表情の石仏で、台座には「慶應二… 三月吉日 施主小井土万次郎 羽田幸次郎 小井土彌五郎」と刻まれている。石仏の素人による後日の調べだが、この石仏は智拳印(左の人差し指を右手で握った印相)を結んでいるので、大日如来ではないかと思う。

その隣りには、三笠山大神、座王大権現、八海山大神の御嶽三座神の石像がそろい踏み。いずれも欠けた所が無く、像容が良くわかる。三笠山大神の台座には「講中行者建之 三笠山 發世話藤原…道」、座王大権現には「御嶽山…郷中…」、八海山大神には「慶應元…九月神惠月 八海山 南牧椚村住 藤原那吉 作彫之」などと刻まれている。

頂上にはさらに2基の石祠がある。石祠の一つは新しく、平成十二年六月吉日造替之馬居澤講中とある。梵天の竹竿も残っており、近年も地元の信仰が篤いことが窺える。


秋葉山頂上の石仏(大日如来?)


御嶽三座神

頂上からの展望は、岩峰の天辺だけあって高度感が素晴らしい。北側には、眼下に陽射しが降り注ぐ馬居沢の集落が広がり、その向こうには御堂山や大桁山、遠くには妙義山のギザギザの稜線を望む。西側には真っ白な浅間山が遠望できる。物語山、トヤ山、ゴシュウ山、鹿岳と西上州の個性的な山々が回りを取り囲み、展望台としても絶好の位置にある。

ふと気がつくと、古い山名板がワイヤが切れて落ちていて、秋葉山に「あきやさん」とルビが振られていた。てっきり「あきばやま」と読むと思っていた(^^;)。これも後日の調べだが、火伏せの神様の秋葉山は「あきはやま」または「あきやさん」と呼ばれるようだ。しかし、この秋葉山に火防の神が祀られているかどうかは、石祠を見ても定かではない。


秋葉山より物語山と浅間山


秋葉山より馬居沢集落を俯瞰
遠くに表妙義

石像と展望を楽しんだのち、峰続きのゴシュウ山を往復することにする。間の尾根上にも多数の石造物があるとのことで、楽しみだ。

頂上の岩峰を下って次のピークに登ると、早速、日野大権現の石碑があり、さらに石垣の上に3基の小さな石祠と水天宮と刻まれた丸石が置かれている。ここから僅かな距離だが、痩せた岩尾根が続く。木が生えているので高度感はさほどではないが、両側の斜面は切れ落ちているので、注意して通過する。


3基の石祠


痩せ尾根を渡る

痩せ尾根を渡り終えた次のピークには摩利支天の石碑があり、その次のピークには白川大権現の石碑が建つ。ピーク毎に宗教モニュメントがあって楽しい。白川大権現の石碑には「丙寅五月 施主羽田平左ヱ門」と刻まれている。丙寅は慶應二年のことだろう。


摩利支天


白川大権現

明るい雑木林に覆われた尾根には、しっかりと踏み跡が続いている。冨士僊元神社の石碑があり、続いて石仏が祀られている。右手に宝剣、左手に宝珠を持っているので、虚空蔵菩薩だろうか(2013-03-02追記:『下仁田の石造文化』によると弁財天とのこと)


ゴシュウ山への尾根


弁財天

尾根を登るとゴシュウ山の西の稜線に出る。最後に岩尾根を登って、ゴシュウ山の頂上に着いた。

ゴシュウ山は私は2回目の登頂だ(山行記録)。前回のときは、まだあまり石仏等に興味がなかったが、この頂上にも立派な石仏があり、今度はじっくり拝見する。

ゴシュウ山からの展望も良い。木の間から北側を覗き込むと、秋葉山が見える。なかなか鋭い岩峰だが、標高差が100m近くあって見おろすことになるので、知らないと気づかないだろう。まず目にとまるのは南東の鹿岳と西のトヤ山、荒船山だ。


ゴシュウ山頂上の十一面観音菩薩像


ゴシュウ山より秋葉山を見おろす


ゴシュウ山よりトヤ山
遠くに荒船山


ゴシュウ山より鹿岳

時間は少し早いが、ここで昼食とする。2月の三床山の山行で調子が悪かったガソリンコンロは、今回はメンテナンスしてきたので大丈夫だ。すぐにお湯が沸き、カップスープとベヤングソース焼きソバを作って食べる。

最初は風がなく、陽が差してポカポカと暖かい陽気だったが、食事をしているうちに陽が翳り、風が強まって寒くなった。今日は遠征しなくて正解でした。食べ終わったらそそくさと荷物をまとめて、往路を秋葉山へ戻る。

秋葉山直下の鞍部から、登路とは反対の東側に降りる。杉林の急斜面で踏み跡は定かでないが、赤テープを目印にほぼ真っ直ぐに下る。

途中から右に分れる踏み跡があり(赤テープもあり)、それを辿ると岩壁の中腹に穿たれた岩窟の下に出た。かなり大きな岩窟で、以前訪れた三徳山三佛寺の投入堂を思い出した。滑り易い岩場を注意して登り、岩窟に入る。中は広くて深く、奥に3基の石祠がポツリポツリと祀られている。そのうちの一つには「當村施主小井土六右門」と刻まれていた。小井土とは珍しい名字だが、頂上の石仏にもあったし、下仁田に多い名字のようだ。


秋葉山東面の岩窟


岩窟の中の石祠

岩窟から元の踏み跡に戻り、急斜面をほぼ真下に下ると沢に降り着く。ここからは傾斜が緩くなり、左岸の杉林の中にはっきりした踏み跡が現われる。これを辿ると、やがて馬が通れそうな作業道となる。左岸の尾根が低くなり、尾根を乗り越して左側の沢に降りる。あとは緩やかな沢に沿って下るだけだ。最後は擁壁のスロープから、朝に車で通った車道に出る。そこから駐車地点までは僅かな距離だった。


杉林の急斜面を下る


擁壁のスロープから林道に出る

参考文献:『下仁田の石造文化』下仁田町教育委員会編(1976)